廻檀
江戸時代に入って、山伏たちは檀家を持つようになります。そして、一年に一度、その檀家を廻って、民間祈祷師としての役割をはさしました。山での諸行事は9月までに終わらせ、12月からはまた新たに行事が始まるので、空白の2ヶ月を使っての廻檀です。
檀家では、お礼を納め、荒神祓い・馬屋祓い・水屋祓いなどの御祓いをし、憑物落とし等、さまざまな加持祈祷を行いました。また請われれば観音経や阿弥陀経を読誦したといいます。その際、檀家から頂戴した「布施」あるいは「お初穂料」としての金銭や米、粟などの穀物が、山伏たちの生活を支えたのです。
大友宗麟書状
新年の祈祷のために茶を贈ったことに対する礼状です。
薬袋とその版木
「求菩提山御薬」とか「駆虫丸」などと書かれた袋やその版木がたくさん残されています。
修験と茶
建久年間(12世紀末)に、臨済宗の僧・栄西が中国から茶樹を持ち帰り、それを脊振山に植えたのが、わが国の茶の文化の始まりだとされています。脊振山は現在の福岡市と佐賀県神埼郡との境にあり、かつては「脊振千坊」と言われて修験の山として栄えました。脊振山が山伏の活動拠点だったがゆえに、茶は薬樹として、まず山伏たちの手によって求菩提山をはじめとする北部九州の修験道寺院にいち早く伝播したと考えられています。
求菩提山は、しばしば朝霧が立ち込めて、茶の栽培に適した土地柄とされ、かねてより上質の茶がつくられました。そして、その茶は、本山の聖護院や地方豪族・領主へ進物として贈られたり、檀家廻りの折に山伏が持ち歩いて宿代にあてられたりしたといわれています。また、江戸時代には、御用茶として小倉藩へも納められていました。
坊の生活資料あれこれ
山伏の住む家のことを「坊」、その集落のことを「坊中」と呼びました。求菩提山は上谷・中谷・下谷・杉谷・西谷・南谷・北谷の7坊中に分かれ、「一山五百坊」と言われました。
坊跡にはさまざまな生活資料が残されています。
修験と薬
近世の山伏は民間祈祷師であるばかりでなく、人々にとっては頼りになる民間療法の専門家でもありました。つまり、病気を治すための加持祈祷を行うかたわら、薬草・薬石をそえることを忘れなかったのです。山伏たちは、本草学に関する知識を持ち、山中で薬草を採取あるいは栽培して、さまざまな薬をつくりました。つくった薬は年に一度の檀家廻の際に配って歩き、翌年檀家を訪ねた折にもしもその薬が呑まれていれば、代金を頂くといった具合でした。「入れ薬」のはじまりです。
坊で使われた生活用品
山伏女(山伏の妻)たちの持ち物
廻檀送り手形
檀家まわりをしている山伏の次の旅先を役所に届け出たものです。