茶に関する求菩提山文書
恒遠俊輔(求菩提資料館長)
 明和元年(1764)に作られた『求菩提山絵図』には、山の八合目の五窟付近から山麓、さらには龍門谷にかけて広範囲に茶畑が描かれていて茶の栽培が盛んであったことを窺わせる。また、天保年間の『茶高帳』によれば、茶畑の地名(小字名)は34ヵ所に及び、年間の生産量は989荷半となっている。茶の1荷がどれだけの量に相当するのかは定かではないが、小倉藩は、茶1荷につき米1升8合の割合で税をかけていたとされる。
 朝霧のたつところで採れる茶は上質と言われるが、求菩提山は、しばしば霧がたち込めて、その東南面は茶の栽培には最適の土地であったと考えられる。そして、求菩提の茶は、本山や大名等々への進物の品となり、江戸期にあっては、その多くが小倉藩の御用茶として納められている。また山伏たちは、檀家廻りの際にそれを持ち歩き、宿泊代にあてたりもしている。
 ここに紹介する文書は、求菩提山から本山である京都聖護院や大友宗麟、さらには細川忠興への茶を贈った時の相手方からの礼状である(福岡県指定文化財)。
 さて、日本人は、発酵させないで作る青葉アルコールの香り高い緑茶を好むが、わが国のそうした茶の文化は、建久2年(1191)臨済宗の僧栄西に始まる。彼は、中国(宋)から持ち帰った茶の木を、まずは現在の福岡市と佐賀県神崎郡との境に位置する脊振山(標高1055.2m)に植えたという。そして、茶の木はその10数年後、栂尾の明恵上人のもとへ送られ、京都でも茶の栽培が行われることになる(宇治茶)。
 また、栄西が鎌倉幕府に招かれるとともに、茶は東国へも伝えられていった。
 しかしながら、はじめに茶が育てられた脊振山が、「脊振千坊」と呼ばれる修験の山であり、山伏たちの活動の拠点であったことからすれば、茶の栽培は、全国に先駆け、山伏たちの手によっていち早く北部九州の修験道寺院へ伝播したと考えることができる。むろん、求菩提山へもこの時期に茶が伝わったのであろう。
 栄西は、その著書『喫茶養生記』の中で、「そもそもお茶というものは、末世における養生の仙薬であり、人の寿命を延ばす妙術である。その茶の木がはえる山や谷は神秘霊妙な土地であり、その茶を摂取する人は長命なのである」という意味のことを書いている。つまり、彼は、宋から持ち帰った茶を「薬樹」として普及させようとしたのである。
 ところで、熊倉功夫氏(国立民族学博物館教授)は、「その昔、茶が貴重品だった時代には、単に喉のかわきをいやすためにお茶をのんだのではなく、日本人は茶をのむことに特別の意義を感じていたのではないか」という。そして、古代日本人は、神に祈ることを「祈む(のむ)」と言った。それも、言葉に出して祈るというより、祈るべき言葉を深く心中に忍んで、つまり言葉をのみこんで神に願うことだった。従って、「のむ」という行為は、「食べる」という行為とは違って、人の精神世界にかかわる行為ではないのか、と言うのである。またさらに、茶を飲む、酒を飲む、煙草を喫む、薬を服む等々、「のむ」にもいろいろあるが、それによって、人々は日常世界を離れようとする、また、精神的高揚を得ようとするところに、「のむ」という行為の共通項があるとも述べている。
 ここに紹介する文書の中に、「為新年祈祷」とか「為歳暮之祈祷」という文字が見られ、薬樹としての茶と祈祷とが結びつけられているのも、その辺の事情によるものであろう。

《参考文献》
『豊州求菩提山修験文化考』 重松敏美著
『茶の湯の歴史』 熊倉功夫著
【聖護院宮内盛照書状】 27.8p×42.9p

為聖護院殿様江後音信
青銅百疋并芳茗五十御
進上候、尤珎異重候以使僧
致披露候、就中私江芳茗五十被懸御意候、誠御懇
志之儀共過当候、猶宝泉坊
地蔵院中善坊可有御演説候
恐々謹言
  永禄六年癸亥
   六月十三日   盛照(花押)
 求菩提山
  衆徒行人御中
【大友宗麟書状】 27.5p×43.9p

為新年祈祷巻数并
茶廿袋送給候、祝着候
仍一折進之候趣、猶臼杵
越中守可申候、恐々謹言
  正月廿六日    宗麟(花押)
 求菩提山
  衆徒中
【細川忠興書状】 35.7p×47.0p

為歳暮祈
祷巻数一枚并茶十袋到来、祝着候、猶加々山
隼人正可申候、恐々謹言
 十二月二十七日
            羽越中
            忠興(ローマ字印)
 求菩提山
   豪貴
   賢俊
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