松会(まつえ)
豊前国の修験道寺院では、古来松会と呼ばれる五穀豊穣を祈願する祭が行われていました。
この祭ではまず神幸祭があり、次に松庭と呼ばれる広場で田行事が行われ、最後に高い松柱の上から幣を切り落とす幣切り行事が行われました。田行事の衣装箱に「建暦三年二月廿九日」の墨書があり、鎌倉時代にはすでにこの祭が催されていたことがわかります。
もともとは神仏習合の祭ですが、現在求菩提山では国玉神社の神事として田行事のみが伝えられており、春の種まきから秋の採り入れまでの農作業を真似ての所作が神歌にあわせてユーモラスに繰り広げられます。
この祭は毎年3月末に行われ、これを機に、ようやく求菩提にも春がやってきます。
経筒
経塚から発見された経筒です。銅製のものと陶製のものとがあり、中に経典が納められました。銅製経筒14口中8口に銘があり、保延6年(1140)から久安6年(1150)の間に埋納されたことがわかります。
経塚信仰
経塚とは、仏教の経典を地中に埋納して盛り土をしたものをいいます。平安末期、末法思想の蔓延する中、釈迦の教えの集大成である経典を弥勒がこの世に現れるまで残しておきたいという信仰から、求菩提山でも多くの経塚が造営されました。これら経塚からの出土品はいずれも国の重要文化財に指定されています。
銅筥(国宝)
箱の四面にはそれぞれ阿弥陀三尊、釈迦如来と多宝如来(薬師如来との説もある)、毘沙門天、不動明王が線刻されています。
(レプリカを展示しています)
銅板法華経の勧進
康治元年(1142)、求菩提山中興の祖・頼厳とその弟子たちによって勧進されたものです。大永7年(1527)に求菩提山中の胎蔵窟の岩の裂け目より銅筥に納められた33枚の銅板経が発見されました。末法の時代、洞窟を母の胎内に見立てて、またいつの日かうみ出してもらうことを願って埋経したものと思われます。
大自然の生態系のバランスの上にかろうじて生かされて生きる非力な自分を発見した人たちは、自然の恵みに感謝し、また時に猛威をふるう自然をおそれて、神仏に祈りました。
経塚からの出土品
経塚からは経筒のほか、仏像・鏡・合子(景徳鎮青磁)などの副納品も発見されました。
銅板法華経(国宝)
33枚の銅板の表裏に法華経8巻と般若心経が刻まれています。
(レプリカを展示しています)