芭蕉塚
芭蕉(1644〜1694)は、筑紫への俳遊の途中、大阪で客死しました。そのため、蕉門の高弟たちが次々に筑紫を訪れ、芭蕉俳諧の流行をもたらしたと言います。また当時の地元の俳人たちは、芭蕉を弔うため、各地に塚を建立し供養しました。「芭蕉塚」と呼ばれるそれは、福岡県下に68基あるといいますが、求菩提山の西の登り口・寒田から杖とり仏へ至る道筋にも、その芭蕉塚があります。
塚の正面には次のように刻まれています。
「連誹妙法塔、連中、雪山、支有、文水、理遊、未覚、一戸、志泉、水月、谷梅、服山、露光、宗羽、扇風、得雨、柳古、栄枝、兆化、文志」
(※妙法=「優れた仏法」「たえなる仏の道」という意味)
裏面には次のように刻まれています。
「元禄七年十月十二日芭蕉翁桃青居士」
「古乃毛登以汁も鱠も佐くら可那」(このもとに汁も鱠もさくらかな)
※元禄7年(1694)10月12日は芭蕉の祥月命日で、「芭蕉忌」「桃青忌」「時雨忌」「翁忌」などと呼ばれています。
※この句は、元禄3年3月2日、伊賀上野の藤堂家の庭で芭蕉が詠んだものといわれています。
なお、この右側には次のように刻まれています。
「天明三奉扇会願成就
今年九十年越求菩提尓開く扇可那 伊勢和睦九拝」(今年九十年を求菩提に開く扇かな)
※天明3年(1783)は芭蕉の九十回忌です。