如法寺の仁王像
吉野心源(如法寺住職)
《はじめに》
 豊前市の市街地より求菩提山へ向かう道筋に山内地区があり、その里山に如法寺という古刹があります。創建が奈良時代ともいわれるこの寺の長い歴史に反して、遺された文化財は少なく、その殆どが失われています。
 今に残る文化財の一つに、山門の仁王像があります。平安期の藤原様式(*1)を残す古像ですが、平安以前の仁王像は全国でも数例しか遺っていません。一般的に仁王像は、その役割から体躯も大きく造られ、風雨に晒される為、他の仏像に較べ傷みやすいと考えられます。その上、先の発掘調査で、如法寺は過去に数回の戦火に見舞われていることがわかっています。
 そこでこの貴重な文化財、如法寺の仁王像について紹介をします。

《仁王とはどんな仏か》
 仁王(金剛力士)像は執金剛神、密迹金剛などとも呼ばれ、他の仏像と同じくインドが起源です。諸仏の倶生神(*2)として常に金剛杵を手に持って仏を守り、その説法を助ける存在です。金剛杵とは古代インドの敵を打ち砕く武器ですが、仏教では煩悩を打ち砕く仏の智慧の象徴として使われます。
 寺院の守護神として、山門などに阿形・吽形の一対で配され、仁王(*3)と通称されます。

《如法寺の仁王像》
 如法寺の仁王像は、像高約280cm、桧材を内刳にし、背面で割矧をした一木造りで(*4)、平安時代、藤原期作の地方仏です。『木造金剛力士立像』として昭和50年に福岡県の彫刻文化財の指定を受けています。
 像容は藤原様式の穏やかで動きを抑えた姿で、
・奈良様式(*5)の釧を手足に着ける
・腹筋の表現が無く上腹部に二筋の弛みをもたせる
・裳の腰紐を膝まで垂らす
などの他の作例には見られない特徴があります。それには北九州地方に残る既存の様式の影響が伺われます。
 胎内銘によると、江戸時代の宝永4年(1707)に豊州檀越 源忠雄公(小倉藩主 小笠原忠雄公)により修理が行われています。この修理で両手足などを樟材で補作されますが、通常裸足である足先を沓(くつ)を履いた形に変えられています。
 さらに平成7・8年度には、福岡県補助事業として豊前市と共に、平成の大修理が森純一氏により行われました。修理の詳細は、氏の修理報告書に述べてあるので省きますが、各工程に亘り、保存補填の為の十分な修理が行われ、従来の尊容の維持保存がなされました。

《おわりに》
 当地では昔、口に含んだ紙つぶてを仁王に投げ付けて、疱瘡除けの願掛けをしたり、仁王の股を赤ん坊に潜らせて丈夫な生育を願ったりと、仁王は人々の信仰を通じて親しまれてきました。それゆえに災禍を越え、今に遺ったのでしょう。
 先人から受け継いだ文化財を、後世により良い状態で伝えていく為には、文化財行政の担う役割が益々大きくなりますが、私たちの宝は自分たちで守る、という意識と行動こそが最も必要であるとおもいます。

*1 平安時代の藤原期にみる唐様の和様化。動きを抑えた表現が特徴。
*2 守護すべき人とともに生まれる守り神。
*3 本来は二王と書き、仁王は俗字。
*4 内刳(うちぐり)も割矧(わりはぎ)も一木造りの技法。像の割れや歪みを防ぐ為、一木を割り矧ぎ、心材を刳って造像する。
*5 奈良時代の天平期にもたらされた、盛唐文化の様式。均斉のとれた写実性が特徴。

【参考資料】
『仏教文化辞典』 佼成出版社 (1989)
井上 正 『京の美術 金剛力士』 (1970)
森 純一 『如法寺金剛力士像修理報告書』 (1996)
 
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