五節句について
相良悦子  (求菩提資料館学芸員)
 2008年のミニ企画で、「おひなまつり」を開催した。今、雛祭りは人気があるようで、各地で開催されている。当館にも寒い時期であったにも関わらず、かなりの人が訪れた。そもそも、雛祭りは五節句の一つ、「上巳(じょうみ・じょうし)の節句」がもとになっている。これに関連し、五節句について述べてみたい。
 五節句とは1月1日の元日(後に1月7日)、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽(ちょうよう)をさし、この日はすべて奇数の同じ数字が重なっている。奇数は陰陽道では陽の数字であり、もともとは日本人には好まれている数字である。よって本来ならば奇数の重なるこれらの日は縁起のよい日であるのだが、奇数が重なると偶数が生まれる。偶数は陰の数字であるため、その邪気を祓うために行っていた行事が五節句の始まりである。
 奇数を重ねた月日を意味あるものとして最初に節日としたのは中国である。しかし中国では奇数はあまり好まれず、むしろ対になることができる偶数を好む。そのためか中国に伝わる故事では、奇数を重ねた日には不吉なものが多い。3月3日、漢の時代、平原(へいげん)の除肇(じょけい)という女性が3月初めに三つ子の女の子を産んだのだが、3日たってみんな死んでしまった。そこで一村という人物がこれを奇怪な出来事だとし、ともに水辺に出てそそぎ洗いし、汚れを祓い、盃を流したという(「続斉諧記」)。なおこの盃を流したことが「曲水の宴(きょくすい・ごくすいのえん)」のはじまりとなる。5月5日、戦国時代の楚の詩人、屈原(くつげん)が国を憂いながら汨羅江(べきらこう)という川に身を投げ、その死体をすくい上げるために多くの船がこぎだされた(「荊蘇歳時記」)。7月7日、牛飼の牽牛と結婚した織女は幸せな生活を送っていたが、機織りをやめてしまったため天帝の怒りにふれ、1年のうち7月7日の夜だけしか会うことができない(「述異記」)。9月9日、後漢(ごかん)の方士(*1)、費長房(ひちょうぼう)が弟子の桓景(かんけい)に「今年の9月9日、汝の家に災いあり。当日紅袋の中に茱萸(*2)を入れて下げ、山に登り菊酒を飲めば災いを免れることができる」と忠告する。桓景はこの言葉の通りにし、夕方家に帰ると鶏や牛が身代りに死んでいた(「続斉諧記」)。こういった故事からみて、中国で始まった奇数を重ねる節日は不吉であるがため、その邪気を祓う日になっていったと考えられる。そして邪気を祓うものはその時期の植物やそれを使った食べ物であり、それがそのまま日本に伝わったのである。
 「節句」は「節供」と書かれることもある。「節供」はもともと節日に供えるもののことで、上巳の草餅、端午の粽(ちまき)などのことだった。それが後に節日そのものをさすようになった。「節句」は節日を意味する節供の当て字として江戸時代から使われるようになった言葉で、以後よく用いられるようになり、現在では「節句」の表記が主流となっている。
 日本では五節句はいつ始まったかよくわからないが、室町時代にはその概念があったようだ。そして江戸時代には五節句は正式に祝日となった。ただし1月は1日ではなく7日と定められた。
 以下、それぞれの節句ごとにみていく。なお、それぞれの節句は旧暦で行われていたため、現代とは季節がずれている。

1月7日 人日(じんじつ)
 本来は1月1日の元旦であったが、江戸時代の祝日は1月7日が採用された。なぜ7日が採用されたのか。五節句を「邪気を祓う」という視点で見てみると、1日は屠蘇で病をよけるという習俗はあるが、一年の始まりを祝う特別な日である。古代中国において、7日は7種の野草を使って羹(あつもの)を作り、また鬼鳥が女の子を奪いに来るので家々で床や戸を叩いて追い払うという習俗があった。それが日本に伝わり、室町時代には七草粥を作って食べる習俗となっていった。これらから考えると、邪気を祓うという点において、7日の方が適当であったと思われる。また、「人日」という名は、元日より6日までを六畜(馬・牛・羊・豚・犬・鶏)の日にあて、7日を人の日にしたという中国の古い習俗に由来している。人日には七種の野草を入れた粥を食べ、邪気を祓った。

3月3日 上巳
 「上巳」という名は、古代中国で3月最初の巳の日に川で身を清め、不浄を祓うという風習に由来する。現代は3月3日というと雛祭りを連想するが、雛祭りはこの上巳の行事と平安貴族の子女が行っていた「ひいな遊び」というままごとのような遊びが結びついてできたと言われている。現代の雛祭りでは雛人形を飾り、白酒を飲むが、古来は桃酒を飲んでいた。中国では、桃は強い生命力をもつとされており、3月3日の日に桃花を浸した酒を飲めば百病を除き顔色が良くなるといわれていたからである。またヨモギの強い香りが邪気を祓うと考えられたため、ヨモギを入れた草餅を食べていた。

5月5日 端午
 「端午」とは、月の端(はじめ)の午(うま)の日を意味している。もともとは5月に限られたひではなかったようだが午と五が通じることからいつのまにか混同され、5月5日を指すようになった。中国ではこの日は邪気を祓い健康を祈る日とされ、野に出て薬草を摘んだり、ヨモギで作った人形を飾ったり、菖蒲酒を飲んだりするという風習があった。また、前出の屈原の死体を魚が食べないよう魚のえさとして、そして屈原の供養のため、粽を川に投げ込んだという故事が粽を食べる由来となっている。ちなみに柏餅を食べる風習は日本独自のもので、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから縁起物として好まれるようになった。また「菖蒲」の音が「尚武」に通じることから、男の子の節句とされるようになった。

7月7日 七夕
 「七夕」は7月7日の夕方を意味している。七夕という文字は「たなばた」という読み方はできず、本来「たなばた」は「棚機」という機織りの機械をさしていた。中国では織女にちなみ、女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きこうでん)の行事や、書物や衣類の虫干しをするという行事が行われていた。この乞巧奠などの行事が日本に伝わり、それまで行われていた相撲の行事とともに宮中や貴族の間で行われるようになる。この日は瓜や茄子などの季節の野菜を供え、索餅(*3)を食べることにより邪気を祓おうとした。

9月9日 重陽
 陽の数字の中でも一番多きな「9」が重なる日であり、そこから重陽といわれる。菊の花が咲く時期であるから菊の花を飾ったり、菊酒を飲んだりして邪気を祓おうとしていた。古来中国では茱萸の実がついた枝を身につけたり、丘などの高い場所へでかけたりする、ということも行われていた。しかし現在では他の節句と比べ、あまり行われていない。

 江戸時代、五節句は祝日であったため、求菩提山でも何らかの行事が行われていたようだ。
 求菩提は古くより非常に多くの行事があり、江戸時代の記録によると1年で133もの修験行事が行われていたとされる。その他、民俗的な行事も多数あったようだ。七草や雛祭り、端午の節句や七夕の行事は現在とあまり変わらず、特徴的なものはないようである。しかし、朱玄行事をみると、9月9日は「山徒悉く北山に出仕して重陽の勤あり。又三年己前に入行したる千日行者、一千座の本地供を満行し、行衣を脱する衆会の座あり」と『求菩提山修験文化攷』にある。求菩提山内では修験行事として重陽が行われ、またこの日は千日行満行の日であった。求菩提において、重陽は重要視されていたようである。
 このように、民間では親しまれていた五節句であるが、明治6年、陰暦から太陽暦へかわった時に廃止となった。そして現在、雛祭りや七夕は地域おこしなどのイベントとして人気があり、また端午は「子供の日」でゴールデンウィークの1日という印象になり、五節句本来の意味は薄れてきた。しかしこのような行事に接する時、その行事の持つ本来の意味を考え、先人たちの願いや知恵に触れてみてはいかがだろうか。

*1 方士(ほうし)=神通力を持つ仙人の術を身に付けた人。
*2 茱萸(ぐみ)=実際にはカワハジカミの実であったと考えられている。
*3 索餅(さくべい)=小麦粉と米の粉を練って細く紐状にしたものを縄のように綯った菓子。

【参考文献】
「季節を祝う京の五節句」(特別展図録) 京都府京都文化博物館 2000年
岡田芳朗 「暦のからくり」 はまの出版 1999年
「求菩提山修験文化攷」 豊前市教育委員会 1969年
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