修験道と阿弥陀信仰
恒遠俊輔(求菩提資料館長)
いつだったか、僧侶と思しき人たちの一団が求菩提資料館を訪れ、館内の案内を請われたときのことだった。ひとしきり信仰の山としての求菩提山の歴史について説明し、この地には、12世紀半ば頃、豊前国宇佐郡出身の天台宗の僧・頼厳によって修験道がもたらされたが、その頼厳の宗教活動の原点には「阿弥陀信仰」があったと言うと、すかさず「へえ〜っ、修験道に阿弥陀信仰なんてあるの?」そんな言葉が返ってきた。まるで嘲笑うかのようなその口ぶりに、いささかムッとして口を尖らせてしまったが、それはともかく、阿弥陀信仰は、どこかの宗派の専売特許などではなく、さまざまな信仰の重要な柱としてあったのである。
 むろん、それはひとり求菩提山に限ったことではない。九州修験道を代表する彦山にあっても、釈迦、阿弥陀、千手観音を本地仏とする「三所権現」が祀られていて、阿弥陀信仰との関わりを物語っている。
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 さて、比叡山での修行を終え故郷に帰ってきた頼厳は、宇佐の地から晩秋の太陽が求菩提の空を真紅に染めながら、その真向こうに落ちてゆくのを目の当たりにした。そして、その夕焼けの美しさに心打たれて、当時かなり荒廃がすすんでいた求菩提山の再興を思い立ったのだという。そんなエピソードが今なお語り継がれている。古来人びとは、西のお浄土に夕日が沈むと言って両の手を合わせて祈ったというが、頼厳もまた、求菩提の彼方に西方極楽浄土を見ていたのであろうか。
 仏教には「正法・像法・末法の三時」と呼ばれて、時を経るにしたがって次第に世の中が悪い方向へ向かってゆくという下降史観がある。そして、釈迦の没後1500〜2000年が経過すると、世は末法の時代を迎えるという。ことここに至っては、もはや釈迦の教えは残っていても実践されることはなく、政治は腐敗し、人心は乱れ、はたまた天変地異が起こり、疫病が流行り、人びとは破滅に向かって坂道を転がるかのように落ちてゆくというのである。
わが国では、永承7年(1052)にその末法の時代が到来したと考えられた。ときあたかも、藤原氏による摂関政治は行き詰まりを見せ、飢饉や水害等々の災害が頻発し、疫病も流行、平安末期は終末を実感させるに十分な時代情況にあったのである。人びとは、もはや自力ではどうすることもかなわず、よって仏の大いなる慈悲にすがろうとしたのではなかったか。
 こうしたとき、奈良時代にすでに始まっていたとされる阿弥陀信仰が人びとの心をとらえていた。人びとは、臨終に際して、必ずや西方十万億度の彼方から阿弥陀如来が来迎し、極楽浄土へと導いてくれると信じた。そしてその信仰によって、死への不安を解消し、安らかに自らの死を受け入れようとした。また、現世に対する絶望を治癒し、来世へと希望をつなごうとしたのだった。
 唐の天台山で「念仏三昧法(一心不乱に念仏を唱えて修行する)」を学んだ慈覚大師円仁は、帰国後、比叡山に「常行三昧堂」を建立。堂内に阿弥陀如来を安置して、90日間、心に阿弥陀仏を念じ、口では「南無阿弥陀仏」を唱えながら、その周りをまわり続けるという行を修した。これを「山の念仏」「不断念仏」と呼んだという。やがて、その比叡山から法然や親鸞が巣立ち、鎌倉時代以降、阿弥陀信仰(浄土教)はさらなる深まりと広がりをみせることになる。
 求菩提中興の祖・頼厳もまた、こうした終末観漂う時代の子として、阿弥陀信仰を宗教者としての己の出発点に据えたのではなかったか。
 ちなみに比叡山で彼が師事し、また浄土宗の開祖・法然の師匠にもあたる良忍なる人物は、常行堂の堂僧であり、永久5年(1117)阿弥陀仏からお告げを受けるという神秘的な体験をして、「融通念仏宗」を開いた人である。その良忍の影響が少なからず頼厳に及んでいたであろうことは容易に想像できるところであろう。
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過日、熊野を旅した。そして、ここでも阿弥陀仏との出会いがあった。
 「三所の熊野」といわれるなかで、熊野本宮は、まさしく熊野三山信仰の中心と言えようが、そこの証誠殿(しょうじょうでん)の主神・家津御子神(けつみこがみ)の本地仏は、ほかならぬ阿弥陀如来である。平安後期から鎌倉前期にかけて頻繁に行われた上皇らの熊野詣は、本宮証誠殿阿弥陀如来の宝前にぬかずき、幣を奉り、経供養することを最大の目的としていたという。阿弥陀仏を拝むことによって極楽往生ができる、そう信じられたからである。
 では、何故にこうした信仰が熊野本宮に根づいたのか。一般的には、人が死んだら、その魂は山へ昇るというあの「山中他界観」によって、それは説明できるのかもしれない。しかしながら、別な解釈もまた成り立つ。
 あの日、私は熊野本宮の旧社地を歩きながら、豊島修氏の著した『死の国・熊野』(講談社現代新書)の一節を思い出して妙に納得していた。
 旧社地は、明治22年(1889)の水害で流出するまでは、現在の社地からやや下流の大斎原(おおゆのはら)に鎮座していた。豊島氏は「この大斎原は熊野川と音無川と岩田川の三川が合流する中洲にあったことに注意したい」という。そして、熊野川の上流には十津川(現・奈良県)があり、この十津川には「水葬」伝承があるとしている。十津川の川原には川原墓がつくられるが、洪水がくるとその墓は流されてしまう。十津川の下流にあたる本宮の中洲(砂洲)が、水葬された死体の流れ着くところであった可能性を考えてみなければならない。熊野神道の御祭神にもいろいろあるが、そこには流れ寄った死体の霊を神格化したものもあったのではないかなどと記している。なかなかに興味深い指摘ではなかろうか。
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 言うまでもなく、阿弥陀信仰は人の死と深くかかわっている。そして、修験道がその阿弥陀信仰と結びついているということは、かの山伏たちがまぎれもなく人びとの死と向き合ってきたことを示している。逃れたくても決してのがれることのできない死と彼らも格闘してきたのである。
 阿弥陀信仰では、人は極楽浄土への往生ということの中に救いを見出すのであり、そこでは死んでのちも自己が確保され、しかも安楽がもたらされるということになる。ある人は、修行の目的は臨死の良いビジョンの獲得にあるという。つまり、人は死ぬ前に極楽をみるために念仏を唱え、経を読むというのだ。
 『阿弥陀経』は、極楽浄土とはどんな世界なのかを描いてみせる。『大無量寿経』は、極楽世界成立の因果を説く。そして、『観無量寿経』は、極楽へ往生するための方途について述べている。これがあるいは「葬式仏教」などと揶揄される所以なのかも知れないが、「死」を見つめることの意味は大きい。
 人間は、自らが死ぬということを知っている唯一の動物である。それゆえ、人は、死に対してこのうえない不安を抱き、恐怖におののき、死から遠ざかろうとし、はたまた己の不滅を希求する。そして、そこに宗教という人間の文化が芽生える。それは、死という問題と切り離しては成立し得なかったであろう。にもかかわらず、現代文明は、すっかり人びとを「死」から遠ざけてしまっている。実のところ死と常に隣りあわせで生きているというのに、人はじっくり死について考えてみようとはしないのである。しかも、今日の医療は、「生物的延命」にのみその意義を見出し、技術に限りを尽くして、最後の最後まで死の影を追い払おうと躍起になっているかに見える。
 もっと、人間は死すべきものだという原則を真正面から受け止めてみるべきではないのか。やがて訪れるであろう「死」と向き合うことによって、限りある「生」もまた輝くことになるに違いない。そうした意味で、阿弥陀信仰は我われに様ざまなことを示唆していて、こうした角度から修験道にアプローチしてみることもまた大切なのかも知れない。
 
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