蔵持山修験道遺跡の発掘調査について
   -調査とその成果についての概要報告-
木村達美  (みやこ町教育委員会)
 英彦山六峰の一つに数えられる蔵持山(みやこ町犀川所在・標高478m)は法流の上では求菩提山とは兄弟ともいえる間柄ながら、地勢や文化はそれぞれの特性がありまた別趣の観を醸しています。その特性が焙り出される好機ともいえる発掘調査が、蔵持山では平成16年度以降行われてきており、今回はその概要をご紹介することによって、皆さんにそれぞれの山の特性はもちろん豊前の山岳信仰文化を理解する一助にしていただければと思います。なお報告は調査において設けた4つの調査区分(@西達丁〔にしだっちょう〕地区 A北谷〔きただに〕地区 B茶臼山〔ちゃうすやま〕地区 C中谷〔なかだに〕地区)に従って進めてゆくこととします。
 (1)西達丁地区
 岩盤からなる尾根上に所在し、配石墓(はいせきぼ)あるいは経塚とみられる拳〜人頭大の瓦礫で築かれた2m四方ほどの集石遺構が4基確認された。内部からは火葬された骨とともに、それを納めた白磁壺のほか、副葬品としての青磁碗や皿のほか短刀・数珠玉(水晶製)・和鏡などが出土した。なお、2号集石遺構についてはその基礎部分を、基盤となる岩盤を掘削したうえでの造成を行っており、入念な造作ぶりが窺え、本遺構群における中心的存在であることが窺える。
 (2)北谷地区
 西達丁〜茶臼山間の谷地形に所在しており、3区に分けて調査を実施している。
 ア.T区:地区最高地に位置する斜面に立地している。調査区外にある山中の聖地・北山洞の前面に当たるため、ここへ供えられた上限を10世紀とする土器を中心とした遺物が大量に堆積しており、2m近い良好な包含層が形成されていた。
 イ.U区:地区中間点にあたり、幅・奥行き5mほどの巨石とその前庭に広がる平坦面からなる。巨石前面において祭祀が行われていたと見られ、礫石による簡易な祭壇らしき石組みが確認されたほか、岩の裾部分から大量の土器(11世紀)とともに懸仏(かけぼとけ)の部品や箱笈とよばれる簡易厨子(ずし)の金銅製飾金具(こんどうせいかざりかなぐ:13世紀以降のものか)が出土した。これらの成果から、当該巨石は山の神を招聘するために設定された「磐座(いわくら)」とみられ、立地環境からも山中における枢要的な位置にあったことが想定される。
 ウ.V区:地区最低所にあたり、谷の斜面を造成した平坦地に19世紀頃の建物2棟(母屋・稲屋)の礎石や基壇の縁石、排水溝が確認され、使用された生活遺物(陶磁器〔碗・皿・壺等〕・石製品〔臼・砥石・硯・念珠等〕・金属品〔煙管・釘・刀・鋤等〕)が多量に出土した。
 なお、当該地は「上之坊(うえのぼう)」と称され、「住房」とよばれる修行者の生活地としての利用がなされていたことが伝承や諸資料により確認されているが、今回その痕跡が時代を違えて複数次にわたり、しかも同じ場所で重層的に存在していることが確認されるに至っている。現在4〜5期ほどに亘ることが想定されていて、同時に平安〜明治時代半ばにわたる千年近い歴史が凝縮されていることが窺える。
 (3)茶臼山地区
 北谷〜中谷間にある尾根上に所在しており、地名の基となったとみられる茶臼状に突出した角礫凝灰岩の断崖を中心に上下2区に分けて調査を実施している。
 ア.T区:断崖上部にあたり若干の平坦地となっており、当該地から土師皿片とともに布目瓦の集積が確認されている。破壊が著しく遺構の残存状況がよくないが、何らかの埋蔵施設が設けられていたことが想定される。
 イ.U区:断崖下部にあたり、岩裾に幅3m、高さ奥行ともに1mほどの小規模な窟(いわや)が形成されている。窟前面の斜面から土師皿片が出土し、窟を対象とした祭祀が行われていたことが想定される。
 (4)中谷地区
 現社殿地の下方に展開する谷地形に所在する遺構群で、3区に分けて調査を行っている。平坦地が連続し、かつての宿坊集落であったことが確認されている。
 ア.T区:江戸期に「乗満坊(じょうまんぼう)」を称した山伏の住坊跡で、500u程の平坦地からなる。背後と前面に石垣を築き広い敷地を確保するよう工夫がなされ、母屋と稲屋程度の建物があったとみられ、地内に建物の礎石が残されている。
 イ.U区:江戸期に「梅本坊」を称した山伏の住坊跡で、500u程の平坦地からなる。背後と前面に石垣を築き敷地を確保するよう工夫がなされている。T区:同様の遺構の存在が窺われるとともに、「泉水」とよばれる庭園の遺構が一部残されており注目される。
 ウ.V区:山上へ至る参詣道で幅3m、全長約50m(調査区間のみ)ほどの傾斜道である。「本道」「伊良原道」とも称され山中における主要道と位置づけられ、江戸末期から明治初頭にかけて行われた石畳による舗装がなされている。石組みの側溝や渡り橋、暗渠等も付属しており貴重な交通遺跡である。

 以上がその報告となりますが、今回の内容は検出遺構の紹介に止まり、それらへの考察や所見は殆ど記していません。初出資料や検討を要する内容が多いためですが、それほこの山の文化遺産としての内容が求菩提山同様に充実していることの証ともいえましょうが、近い将来には正確を期した報告ができるよう今後とも究明を進めたいと考えていますので宜しくご理解下さるよう願います。なお、終稿にあたり本誌上を提供頂いた求菩提資料館と調査に協力頂きました各位に対し厚くお礼を申し上げます。
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