史跡 求菩提山の発掘調査報告2007
棚田昭仁  (豊前市教育委員会技術主査)
 求菩提山の発掘調査は毎年度、計画的に豊前市教育委員会が実施しています。
 求菩提山は平成13年8月に国指定史跡となりました。このことを機に、平成14年度から継続して発掘調査を行っています。目的は、史跡整備を前提としたもので、資料に裏づけされた正確な復元や説明を行っていくためです。
 平成14年度から15年度にかけて護国寺伽藍の調査を行いました。多宝塔、常香堂(常行堂)、山門などです。平成16年度には、頼厳上人供養碑周辺と閼伽井、さらに杉谷の安浄寺を調査しました。平成17年度には前年度に引き続き、安浄寺の調査、そして杉谷参道の石段復旧工事に先立つ構造確認の調査を行いました。以上の調査結果については『求菩提資料館ジャーナル』第17・20号で報告していますので、興味のある方は御覧下さい。
 さて今回の本題となる平成18年度の調査ですが、今まで調査を行ってきた上谷(現在の中宮のある谷)・杉谷(座主坊や安浄寺のある谷)を離れて北谷と中谷の間にまたがる部分の坊跡を調査しました。北谷を調査地として選んだのには、理由があります。現在工事が進められている県道犀川・豊前線が開通した後には、北谷の次郎坊天狗橋付近を求菩提山山内巡りの玄関口として整備を進めていこうとする計画が挙げられています。従来、利用されている座主坊駐車場につながる県道は離合困難な狭い幅員である上、あちこちが傷んでいる状況ですが、県道犀川・豊前線が開通した後には、市道に格下げとなり、今後、路線の管理・保全は財政的にもますます困難になると見込まれています。そこで、新しく開通する広く綺麗な県道から観光・参拝客を招き入れる案が挙がっているわけです。
 北谷は、西口(小倉口)、椎田口(塩負ノ道)を経て、山内に入る際に、最初に目にする坊集落で、求菩提山の西の玄関といえる場所です。また、行を修する上でも春の峯入行に於いて、出郡修験に出る道が、国見山に向う椎田口方面であり、同時に行に不可欠な塩を汲んで帰る役割も担った重要なルートです。
 求菩提山の地理に詳しい方ならば、玄冲の石子詰の跡がある場所と即座に答えるでしょう。まさに、玄冲石子詰の跡とされている場所が北谷ですが、ただ、石子詰の逸話については資料的な裏づけとなるものが存在しません。また、仮に逸話が事実としても、石子詰お跡とされている場所には逸話とも矛盾があり、信憑性は極めて低いと言えます。
 ここで、念のため、この逸話について、ご存知でない方もおられるかと思いますので、簡単に紹介したいと思います。
 「昔、玄冲という若い山伏がいた。勉学を積み出世しようと志し、京へ上った。比叡山での厳しい修行が実り、緋の衣を許されるまでになり、そこで、故郷に錦を飾る思いで、求菩提へと帰っていった。ところが、これを知った求菩提の山伏の中には、自分の地位が危なくなると慌てる輩が少なからずおり、ある企てをたくらんだ。そこへ、意気揚揚と、玄冲は帰途を急いでいた。玄冲は国見の峰に差し掛かり、求菩提の結界はもう目と鼻の先だと思っていたところ、突然深い穴に落ち込んだ。驚いて這い上がろうとすると、急な痛みが体のあちこちを襲った。穴の外からいくつもの石ツブテが投げ込まれてどんどん足元から埋まっていった。騙し打ちの石子責めにあったのであと気付くと、大声で『罪のない者を何の恨みがあって、こんな目に遇わすのか、それならば、求菩提の坊が三軒になるまで祟ってやるぞ。』と叫んで無数の石礫の中に埋まっていった。」祟りのせいかは定かでありませんが、昭和40年代には求菩提山内の坊は3軒のみとなり、最後に残った1軒も平成7年には無住となりました。どうでしょうか、紹介した話で気付かれたかと思いますが、玄冲は結界内に入る前に石子詰に遇っています。北谷の坊中に石子詰跡があるはずはないと考えるのが当然でしょう。
 少々、話が横道にそれすぎてしまいましたが、また調査の内容に戻りたいと思います。
 調査は北谷坊中で、遺構の保存状況の良好な坊跡を選んで、そこでピックアップした坊跡が北谷と中谷の間に跨る部分の西尾氏(西尾坊末裔)が所有する坊跡となりました。
 まず、この坊跡の坊名についてですが、西尾氏の協力のもと、関係者等にあたり、調べて頂きましたが、残念ながら坊名は不明です。
 坊跡の敷地面積は、約400uで、そこに、長方形に築かれた約130uの建物基壇が、縁に自然石を並べる形で残されています。これは杉谷坊中の岩屋坊(岩屋家)とほぼ同じ規模です。また、建物基壇の形態に特徴的な点がみられます。基本的には長方形のプランを採りながら正面から向かって右奥の角が段上に突起するような形態となります。そして、正面玄関の右手に基壇が張り出し、そこに1×2間の便所が設けられています。これらの建物跡と便所の配置と規模などは西谷坊中に残されている瀧蔵坊(宮部家)とも類似しています。さらに、岩谷坊とは、建物の方位までが一致します。これらの共通点から、間取りは恐らく岩屋坊や瀧蔵坊と似たものになると思われます。このことから、坊建築に規格が存在したことが想定できます。恐らく、普請定などで格式に応じた形式・規格が定められており、それに則った建築様式が割り当てられていたのでしょう。
 また、建物の方位が一致する坊跡には、岩屋坊と同じ杉谷坊中の橋本坊(塩田家)、さらに、下谷坊中の成圓(広沢宮司家)があります。北谷・杉谷・下谷とそれぞれ異なる谷で坊の方位が一致するというのは、偶然とは思えません。
 今回、調査を行った坊跡と岩屋坊などの建物方位の一致が意識的なものとすれば、英彦山の坊跡で指摘されるような、「日想観」などの宗教的観想に基づく造りとも考えられます。ちなみに、英彦山の坊跡の日想観を意識した建物とは、彼岸の中日に、三間続きの座敷の前座敷から中座敷を通して奥座敷まで西日が差し込み、奥の祭壇を神々しく照らし出す造りになっているというものです。
 今回、調査を行った坊跡と岩屋坊ほかの坊は東を向いているので、朝日が差し込む造りとなっており、英彦山の例には当てはまりません。
 では、求菩提山の坊跡の方位が示すものは何か、考えてみたいと思います。まず、朝日といえば岩屋坊のすぐ上には、「朝日窟」が所在します。そして、岩屋坊の「岩屋」とは、窟を意味する言葉です。よって、岩屋坊は朝日窟と密接な関係を持つ坊であったと考えられます。そして、朝日が象徴する存在と言えば、密教の主尊「大日如来」です。注意されるのが、東を大日とした点で、東と聞いて一般的に連想するのは、密教のもう一方の主尊「薬師如来」です。ですから、薬師を祀っていた可能性も否定できません。ここでは薬師ではなく大日としたのは、「岩屋坊」と「朝日窟」の関係を重視したいからです。そこで、岩屋坊の場所をもう一度確認すると、求菩提山の坊中で最も古いと言われる杉谷坊中の最上部に所在し、朝日窟のすぐ下に位置します。これは最も聖域に近い場所であり、岩屋坊は大きな坊ではないながらも、特別な坊だったのかもしれません。
 異なる複数の谷で坊跡の方位が一致するのは、統一的信仰原理に基づくと考えられ、それが、東を向くことなどから、それらは大日如来を主尊として信仰する坊とみる考え方も可能ではないでしょうか。それをさらに進展させれば、坊中を構成する坊にもそれぞれの役割があって種種の神仏を各坊で受け持ち、坊中の谷が曼荼羅を表現していた可能性も考えられます。
 なにげない坊の建物の跡も、調査を実施して、検討を加えていくといろいろなものが見えてきそうです。
 山は奥が深く、求菩提にはまだまだ目で見ただけでは気付かない、見落としている大事な事実が、それこそ山のようにあると思います。これからさらに真実を見出す目を鍛えながら、調査を実践する必要を感じています。求菩提山は、標高782mの小規模な山ですが、今は雲の上に聳える巨大な霊山として目に映る存在です。
戻る