牛王宝印(ごおうほういん)
恒遠俊輔(求菩提資料館館長)
 《求菩提山の霊鳥カラス》
2004年春、「くぼて森の美術館〜日本の松を描く〜」と題して、中津出身の画家・長野静司氏(国画会会員・2002年病没)の作品展を求菩提資料館の一室で開催した。
 宮崎えびの高原の赤松に魅せられたのを機に、30年余にわたって日本各地の松を描き続けた氏の作品群は実に圧巻で、それらは求菩提の自然に馴染み、その山懐に自ずととけ込んでゆくようで、展覧会はすこぶる好評であった。
 さてその折、この遺作展開催を記念して、夫人の長野茂子氏より一枚の油彩画が当資料館に寄贈された。
 合掌している姿で石仏とおぼしきものが描かれ、その頭上に黒い烏が羽を広げてとまっているという構図である。
 「カラスはお嫌いですか?」と夫人が問う。
 私は、「いえいえ、子どもの頃には家にカラスを飼っていたことがあるくらいですから、決して嫌いではありませn。それに何と言ってもカラスは求菩提の霊鳥ですから・・・」と応じ、『鴉と合掌仏』という長野静司氏の筆になる作品を有難く頂戴することにした。
 修験の山にはそれぞれに霊鳥がいる。英彦山は「鷹」、八面山は「鳩」、そして求菩提山では「烏」が、古来、山の主神の眷属としてあるいは山の神の使者として神聖視されてきたのである。

《牛王宝印》
 山の神の眷属としてのその烏を組み合わせて描いたものが、「牛王宝印(牛玉とも書く)」といわれる護符である。そうした護符は全国の諸社寺で発行されたが、そのなかでも「熊野牛王宝印」がとりわけ有名である。
 熊野牛王は、俗に「オカラスさん」とも呼ばれ、熊野本宮大社の場合、和紙にその数88羽といわれる烏が描かれている。つまり、それは、熊野の神の使いである烏の象形(カラス文字)をもって牛王宝印を表記し、中央に「日本第一」と記したもので、木版で手刷りを通例とする。熊野本宮大社では、毎年1月7日夕闇迫る時刻に「八咫烏(やたがらす)神事」が厳かにとり行われ、古来、これを牛王刷りはじめの神事としたのだという。
 当館収蔵の資料の中にも、求菩提山の牛王宝印およびその版木(旧滝蔵坊寄託資料)があるが、そこにもまた、烏が描かれていて、求菩提山にあっても烏が神聖視されていたことを窺いしることができる。
 牛王宝印の起源については諸説があって定かではない。生土(うぶすな)が牛王と誤って記されたとする説があり、また牛王は牛黄(ごおう)、すなわち牛の腸・肝・胆に生ずる一種の結石が病気治療の妙薬として珍重されたことによるという説もある。
 いずれにせよ、牛王宝印は、人びとをさまざまな災厄から護るための呪符として、中世以降、諸社寺によってさかんに発行され、修正会や修二会など初春の祭りの際に参詣者に配布された。
 また、時代を経るにしたがい、それはいろいろな方面に用いられるようになり、神仏に誓って自分の行為・言説に偽りのない旨を護符の裏面に記す「起請文」として使用されたりもして、「祈りと誓い」の呪符だとされた。ちなみに、最近、サッカー日本代表のユニホームに輝く3本足の烏は、ほかならぬ熊野のヤタガラスなのだという。

《なぜカラスなのか》
 では、何故カラスなのか?
 熊野の場合、神武東征のとき、熊野に迂回してきた天皇の軍隊を3本足のヤタガラスが道案内し、彼らを勝利に導いたという『日本書紀』の故事にちなんで、烏を神の使い、神意を伝える鳥とするのである。
 ところで、五来重氏は、『山の宗教〜修験道講義〜』(角川選書)の中で、熊野の烏について実に興味深い指摘をしている。いささか長きにわたるが、ここに紹介しておきたい。
 「そういう水葬・風葬が熊のではのちまで遺った。それから風葬の清掃者ともいいましょうか、烏がいます。もともと烏は熊野にとって必要な鳥だったのです。のちになると人が死にかけると烏が鳴くというふうに、死と結びつけた物語だけになりますが、もともと風葬ですから烏は人が死ぬのを待っているのです。そういうことから烏鳴きというようなものも伝わってくるので、熊野と烏はこの問題からアプローチできます。
 それから熊野には古墳がないのです。近ごろ田辺付近で一つ二つあるといわれていますけれど、熊野プロパーにはない。そういうことも風葬を裏付けるものです。熊野の牛王宝印とういえば、烏ときまっておるわけです。そして熊野の妙法山には死んだ人の霊がみないくわけで、人が死んで枕飯を炊く間、死者は枕元の一本花の樒(しきみ)の枝を持って熊野の妙法山にお詣りする。そのお詣りした印に『無間(むげん)の鐘』といわれる鐘がありますが、あれを樒で叩くので、妙法山には人の影がないのにときどき鐘の音がするということを『紀伊続風土記』にも書かれていますが、そういう伝承ができてくる。
 ところが、烏を書いた熊野の起請文に約束を書いて、もし背けば、そのたびに熊野の烏は一羽死ぬというのも、そういう死者と熊野と妙法山の神とを表したものです。・・・』

《求菩提山修験道にみる熊野信仰》
 熊野神の分霊は全国3000社以上といわれ各地に勧請されているが、求菩提山修験道の中にも熊野信仰は息づいているとみることができる。
 毎年3月29日、求菩提山国玉神社では、その年の豊作を祈ってお田植祭が行われ、中宮前に設けられた松庭で今も米作りにかかわる農作業がユーモラスに演じられる。それはかつて豊前国の修験道寺院で行われた山伏たちの祭「松会」を今日に伝えるものである。
 さて、その折に歌われる『遣巻(やりまき)』と呼ばれる神歌の中に、「ほうふときすは熊野にふける」「渡りこん渡りこんよふなる渡りこん」「ほうとふしら稲のほたれ」とある。つまりそれは、ホトトギスは熊野権現に化ける、ホトトギスは熊野権現の使者であるという意味だとされる。そして、ホトトギスよ、早く飛んできておくれ、ホトトギスが飛んできてホウと鳴けば、稲の穂が垂れ、豊かな実りをもたらすというのである。
 だとすれば、求菩提山の烏についてもまた、熊野信仰の全国的なひろがりの中で、いつの時代かにこの地に伝えられたものということができるのではなかろうか。
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