主な修験窟の所在
求菩提百窟といわれるほど、洞窟や岩の裂け目が多い求菩提山では、修行を行う上でこれらの洞窟などは重要な役割を果たした。修験者のこもる場所であり、埋経の場であり、神仏の祀られる場所であった。重松敏美初代求菩提資料館館長らの精力的な作業により、多くの修験窟が確認され、報告されている。ところが求菩提山を除くそれらの窟が年月を経るに従い次第に所在地を知る人が減少、または高齢化する中で、あらためて確認作業を必要と感じるようになった。幸いにも山に登れる関係者が何人か居られるので、強力を仰ぎながら少しずつ確認作業を行っている最中である。いまだ十分な作業はできていないのであるが、ここで今まで得られたデータを整理し、合わせて私見を付してみた。
修験窟の確認作業はできるだけ現地に赴き、GPS(注1)による位置の確認と写真撮影を行い、その後、国土地理院ホームページの地形図閲覧サービスで2万5千分の1地形図と照合し、経度・緯度・標高の数値で窟の所在地を示すことにした。ただし、GPSによる位置には地形状況により多少の誤差が生じるためおおよその目安とされたいことをお断りして、下の位置表を作成してみた。
(注1)GPSとはGlobal Positioning Systemの略で人工衛星を利用した全世界測位システムのこと
番 |
窟の名称 |
所在地域 |
緯度(北緯) |
経度(東経) |
標高 |
備考 |
1 |
大日窟 |
求菩提山 |
33度32分15秒 |
131度0分40秒 |
640m |
|
2 |
普賢窟 |
求菩提山 |
33度32分19秒 |
131度0分47秒 |
630m |
籠水窟 |
3 |
多聞窟 |
求菩提山 |
33度32分20秒 |
131度0分49秒 |
630m |
|
4 |
吉祥窟 |
求菩提山 |
33度32分22秒 |
131度0分51秒 |
620m |
千手窟 |
5 |
阿弥陀窟 |
求菩提山 |
33度32分35秒 |
131度0分52秒 |
610m |
|
6 |
朝日窟 |
求菩提山 |
33度32分35秒 |
131度0分36秒 |
640m |
|
7 |
縁ヶ岩屋 |
求菩提山 |
33度32分39秒 |
131度0分.37秒 |
620m |
|
8 |
不動窟 |
資料館南 |
33度31分53秒 |
131度1分6秒 |
550m |
|
9 |
火追窟 |
資料館南東 |
33度32分1秒 |
131度1分20秒 |
530m |
中心窟の位置 |
10 |
弁財天窟 |
産家集落南東 |
33度32分20秒 |
131度1分25秒 |
460m |
中心窟の位置 |
11 |
釣鐘窟 |
産家集落東 |
33度32分34秒 |
131度1分32秒 |
420m |
中心窟の位置 |
12 |
龍門窟 |
経読岳北西 |
33度31分34秒 |
131度1分28秒 |
720m |
龍門谷 |
13 |
岩洞窟 |
岩屋集落 |
33度33分23秒 |
131度3分31秒 |
200m |
|
14 |
墓窟 |
大河内集落 |
33度33分33秒 |
131度3分58秒 |
210m |
法覚寺裏山 |
15 |
篠瀬観音窟 |
篠瀬集落 |
33度33分21秒 |
131度1分50秒 |
290m |
岡本家裏山 |
16 |
長福寺 |
犬ヶ岳南 |
33度30分25秒 |
131度0分3秒 |
900m |
耶馬溪町 |
17 |
吉祥寺 |
笈吊峠南 |
33度30分32秒 |
131度0分38秒 |
900m |
耶馬溪町 |
18 |
地蔵窟 |
笈吊峠東 |
33度30分48秒 |
131度1分8秒 |
880m |
地蔵岳北西 |
19 |
風天窟 |
犬ヶ岳北西 |
33度31分7秒 |
130度59分45秒 |
760m |
恐淵付近 |
20 |
虎宿窟 |
求菩提山南西 |
33度31分57秒 |
131度0分8秒 |
770m |
虎の尾付近 |
21 |
奥の院 |
求菩提山 |
33度32分25秒 |
131度0分47秒 |
680m |
人為窟 |
22 |
千手観音堂 |
挾間集落 |
33度34分3秒 |
131度7分14秒 |
70m |
松尾山関係 |
23 |
※名称なし |
下川底集落東 |
33度33分36秒 |
131度6分39秒 |
130m |
松尾山関係 |
24 |
運水寺奥院 |
下川底集落東 |
33度33分23秒 |
131度6分15秒 |
170m |
松尾山関係 |
緯度・経度は世界測地系数値を使用。
22〜24は松尾山(大平村)関係であるが豊前市内にあるので参考までに掲載した。
この他にも重松敏美説によると鬼面窟・納経窟・魔仙窟などがあるとされているが存在そのものがいまだ確認されていないため、掲載していない。また椎田町や築城町にも求菩提関連の修験窟が存在するが、現地確認をしていないので割愛した。
龍門谷付近の窟について
ここであまりその所在がしられていない龍門について簡単な私見を述べたいと思う。
龍門谷とは現在の求菩提資料館南東側にある谷である。この谷を上り詰めると経読岳に達する。この谷の両側には不動窟群と火追窟群が存在し、一体が修験の場であったことを認識させる、そういう雰囲気を持つ谷である。この谷にはたくさんの窟が存在するが修験窟として名称を残しているものがほとんどない。しかし、この谷は春峰入りコースの内、経読岳より求菩提山に帰山するコースと考えられ(注2)、修験に利用された窟があっても不思議ではない。今回考えてみたいのが、表中12番の龍門窟である。従来龍門窟とは8番の不動窟のことであるとの説もあったが、その一方で龍門窟は別に存在するとの説もあった。
『求菩提山千日行毎日勤方次第』(寛政11年)という千日行の内容を書いた史料に、行者の下向先として「尾越ノ護尺師護法
龍門ノ不動尊辨財天山之神西谷」とあり、龍門とは不動窟のことと読み取れる部分がある。しかし、解釈の仕方によっては龍門にある不動尊(不動窟)とも取れる。また、中世文書『求菩提山四至注文』(大永6年)には「東者
龍門の岩屋』とある。この文書は同じく中世文書『求菩提山四至傍示状』(年号欠、永享・嘉吉年間カ)の「東面者(中略)此内大日
不動弁才天ノ石室在之」に基づいて書かれたものと考えられ、これらの史料から考えると、龍門窟とは不動窟のこととすることができ、龍門とは不動窟にある洞門(不動門)を指すと史料上考えるのが自然である。
しかし、不動窟は龍門谷に入りすぐ南側の尾根上にあり、谷を挟んで反対側の尾根には火追窟が存在する。さらに、経読岳からの帰り道は尾根ではなく谷川に沿った部分が有力であることを考えると、龍門谷の由来となった門は不動門とは別に谷の途中にあるのではと考えたい。重松敏美氏がなぜ別に龍門窟を想定したか、その根拠は先ほどの中世文書『求菩提山四至注文』以外にないのであるが、地元からの聞き取りや伝承による推定もあるのではないかと考えている。以上のことを踏まえた上で、実際に龍門谷奥には洞門状の窟がお存在し、この門を通る道がついていることこから、ここが龍門と考えて、12番龍門窟として表に掲載した。
龍門付近には他にも窟が散在している。すべてを修験窟とするには史料もなく無理があると思われるが、峰入りコース上にあることを考えると、その中のいくつかは何らかの役割を担っていた可能性はある。
以上、はななだ簡単ではあるが、求菩提山関係修験窟の所在地を表にまとめた上で、龍門谷の窟について意見を述べてみた。龍門に関しては史料的裏付けがないが、限られた史料よりも、実際の地形状況などから推察すべきものもあるのではなかろうかと考えている。
(注2)峰入りコースについて
近世求菩提山では、春75日・秋35日間峰入りが行われていた。そのコースは必ずしもはっきりしていないが、安政4年の春峰についての文書『華供峯中規定略記』によると、旧築城郡の町々を回った後、いったん求菩提山に戻り、その後山々を巡っている。そのコースを重松敏美氏は「求菩提山→一ノ岳→長福寺→犬ヶ岳→吉祥寺→経読岳→龍門→不動窟・火追窟→求菩提山」と考えている。今回はこの説に従った。
参考文献
重松敏美 『豊州求菩提山修験文化攷』