豊前神楽と祈りの〈かたち〉 −旧上毛郡を中心として−
白川琢磨 (福岡大学教授・福岡県文化財保護審議委員)
 1.豊前神楽との出会い
 私が豊前神楽と始めて出会ったのは、福岡大学に転任してきた最初の年度である2003年3月2日、場所は福岡市のアクロス福岡で、偶々大村神楽の駈仙(みさき)舞を見る機会をもった(*1)。修験道を研究対象の一つとしてそれまで各地の修験に関係する儀礼や芸能を見る機会の多かった私は、駈仙と神主役との緊張感溢れる対峙と所作、それから暫く続く迫力ある争闘シーンに深い感銘を受けた。それは正に修験者が鬼を調伏するシーンと重なっていたのである。だとすれば神主が振る鈴は錫杖であってもよいはずであるが、この点については、九州では鈴であるが、中国地方に行くと、より錫杖の形態に近い「輪鈴」を用いる地域が広がっており、長門の三隅地方などでははっきりと錫杖と呼ばれている(*2)。やはりこのシーンは調伏が芸能化されたものと見ることができそうであるが、驚いたのはその解釈である。演目終了後に初老の講長が現れ、駈仙は猿田彦尊、神主役は実は天鈿女尊であり、これは高天原において猿田彦が天鈿女を道案内している様子を表していると解説した。会場は静かな笑いが起こった。講長はその雰囲気を察して「とても案内しているようには見えませんけどね」と苦笑いしながら付け加えたのである。観客の一人として私は、この迫力ある争闘が何故に道案内にならねばならないのか、もしこうした解釈が地元に流布されたとするなら、演目の中心とされる岩戸舞、即ち天の岩戸の前段としてかなり強引な記紀神話に基づく脚色が行われたと考えざるを得ないという印象をもった。
 豊前神楽もその一つに含まれる里神楽については民俗芸能史や民俗学にかなりな研究蓄積がある。豊前神楽は岩戸舞を主演目とすることから出雲系とされ、また湯立を重要な演目とすることから伊勢神楽の影響下にあるとされ、さらに求菩提六峰の山々で活発に活動した修験者の影響が、跳躍や返閇、あるいは幣切などの所作に残されていることから山伏系とも云われてきた。系統の問題は未だ解決されてはおらず、確かに重要な問題であるが、ここではそうした系統論から離れて別の角度から捉えてみたい。即ち@何のために神楽が舞われ、Aどのような人々が神楽を舞ったのかという視点である。もちろんこの二点は相互に密接に関連しており、便宜上の分割に過ぎないが、とりあえずAの問題から見ていきたい。

 2.神楽を舞った人々:宗教民俗の形成主体
 この地方の神楽は別名「社家神楽」と呼ばれてきた。神楽を舞った主体に注目した言い方である。自ら黒土神楽の演者であり、かつ地元の研究者である有馬徳行氏によれば、近世中期には、旧上毛郡(現、豊前市及び築上郡東部)に、長谷川家、清原家(現、大富神社 *3)、矢幡家(角田八幡神社)、矢幡家(成恒吉富神社)、宮崎家(下唐原)の社家があり、その一族ら17〜19名で舞っていたとされる(*4)。共同で一帯の各所で舞っていたわけであるから、現在見られる各神楽講の演目や所作の違いは明治以降、神楽が社家から民間に伝えられてから発生したものであり、原型としては同一であったと考えられる。ともあれ、これら社家がどのような人々であったのか、今日の神官と同じと見て良いのだろうか。
 豊前の社家の系譜に関する史料は現在整理中であり刊行されていないが、隣の筑前側に有力な史料がある。遠賀御殿神楽は現在でも社家神楽の形が存続している貴重な神楽であるが、その社家の一人である波多野學氏が最近刊行された著書の中で家譜に関する興味深い史料を紹介されている(*5)。例えば次の記述である。

 万治4年(1661)波多野河内正次「両部習合神道相改吉田御本所御裁許状頂戴仕候」(*6)
                                                   (傍線筆者)

 幕府が全国の神官の統括を京都の吉田家に委任するきわめて重要な宗教政策である「諸社禰宜神主法度
」(*7)を発布したのが寛文5年(1665)であるから、波多野家ではそれに先立つ4年前に裁許状を得て、その意に沿って名もそれ以前の太夫から守に改めている。おそらくこの時以降、吉田(唯一)神道の影響下で神楽からも仏教色がほとんど排除されていったのであろう。しかし、それ以前は両部習合神道であった。両部とは正しくは金剛界・胎蔵界の両界を指すが、一般には神仏両部の意味でも用いられた(*8)。いずれにしても中世的な密教的神道であることは明らかである。さらに以下のそれ以前の家譜の記述から

 慶安2年(1649)波多野神太夫(実貞)「権大僧都法印要撰坊より両部習合神道勤免書」
 天正11年(1583)波多野掃部太夫(春重)「権大僧都法印多門坊より両部習合神道勤方之免書」(*9)
                                                   (傍線筆者)

太夫時代に免書を与えていたのは要撰坊や多門坊とかいった密教僧(社僧)であったことが分かる。もちろんこれは筑前の事例であるが、豊前の場合、社家のほとんどが神仏習合色の強い八幡系寺社を足がかりにしていることもあって、両部神道の影響は相当大きいものであったことが推測されるのである。
 ではこうした豊前の社家に影響を与えた寺社勢力の拠点は何処にあったのか。地理的には求菩提山が目立ち、その影響もあったであろうが、まず第一に松尾(まつのう)山である。松尾山は社号、松尾山権現、次号を松尾山医王寺と称し、中世以来の山岳寺社勢力の拠点であった所である
その勢力が衰退していた江戸後期の安政5年(1858)にあっても座主、滅罪寺を含めて25坊、人口121人、その内僧が33人、山伏32人、女性56人を数えていた(*10)。僧と山伏の人数が拮抗していることに示されるように、山内は衆徒方と行人方に分かれる中世以来の組織の輪郭が継続していた(*11)。近世期この地方一帯を支配した小倉小笠原家の祈祷所でもあり、地域の大庄屋友枝手永がその有力な守護者であった。さらに松尾山に伝わる史料(『松尾山神社旧記集』)には、湯立法門は、伊予から豪泉が伝え、慶長11年(1606)に「・・・嗣席豪傳に修験並びに神道の奥旨を傳ふ。豪傳に至りて神道専ら流布す。上毛下毛両郡の社家、悉く豪傳の末流と為る。この證今に在り。就中湯立の法門、皆此の豪傳の許す処也。」(傍線筆者)と述べられており、また祭礼の行列の中に「山伏四人駈仙を拂い」と見える所から、湯立や駈仙との深い関係も窺えるのである。

 3.何のために神楽は舞われたのか?
 さて神楽を舞った社家が、今日見られる神官ではなく、両部習合神道に関係し、修験とも重複する存在であったとして彼らは一体何のために神楽を舞ったのであろうか。今日我々は神楽を芸能の範疇に入れてしまうが果たしてそれでいいのだろうか。『豊前市史資料編』所収の神楽に関する近世期の記録から拾ってみると「元和6年(1620)・・・虫止五穀成就御祈祷として綱切神楽奉納あり・・・其後度々綱切執行。」「寛永8年(1638)・・・五穀成就岩戸神楽祓執行御祈祷として・・・」〔大富神社〕;「・・・四民安全之神楽祓・・・」〔春日神社(三毛門字宮の本)〕;「文化9年(1812)・・・家堅御祈祷湯立神楽執行」〔貴船神社(永久=ながひさ)(傍線筆者)などと記されており、まとめると風雨順調・五穀豊穣・四民安全・疾病除去などの特定の目的を達成するための「加持祈祷」として執行されていたことが分かる。加持祈祷とは簡単に言うと特定の行法を通じて真言を唱え、本尊と一体化することでその呪的効力によって所定の目的を達成することである(*12)。小倉小笠原藩の飛地領であった筑前側の現在の二丈町福井に伝わる神楽では、現在でこそ福井神楽と呼ばれ春に行われているが、大正時代末まで「春祈祷」という名称が一般的であった。先述した筑前御殿神楽に関する波多野家文書には、恐らく県内最古と思われる天正5年(1577)の銘のある「湯之大事」「火之大事」と名付けられた切紙が伝わっている(*13)。切り紙であるから内容は至って簡素で要点のみしか示されていないが、今日筑前側では既に廃滅しているが豊前で存続している湯立・火渡りの原型に相当すると思われる。それによると、湯立は、「逆故三界城」「語故十方空」「本来元東西」「何処有南北」の文を四方に立て(*14)、中央に釜を据える。そして「八ヨウ之印」で「ケン・ウン・ラ・ビ・ア」と唱え、「九字」、そして「水の印」にて「バン」、最後は四明印にて「ラ・バン・アーク」と三遍唱えている。また火鎮めと思われる呪文「天竺の竜さか池にすむしかもしみつ(清水)ともなれこうり(氷)ともなれ」も記されている。火渡りもほぼ同様であるが、真言の順序が「ア・ビ・ラ・ウーン・ケン」、火渡りの方向が「東より西へ、北より南へ」踏むことが規定され、最後に護身法で「木火土金水」を加持すべきことが書かれている。何れも天正5年(1577)10月26日の同一日付で「両扶(波多野掃部太夫)」から「権大僧都法印多門坊(宥盛)宛に提示されている。
 アビラウンケンは、宇宙を構成する五大要素である地水火風空を表し、また黄白赤黒青の五色で示される胎蔵界大日如来の真言であることはいうまでもない。湯立・火渡りが本来、密教的教義に基く加持祈祷の行法であったことは明らかである。現行の神楽にもこうした要素は残存している。山内神楽では火渡りの際に「アビラウンケンソワカ」と二回唱えているし、黒土神楽には火天「ナウマク アギャナウェイ ソワカ」水天「ナウマク バルナヤ ソワカ」地天「ナウマク ハラチビエイ ソワカ」の神呪(*15)が伝わってもいる。

 4.みさき(駈仙)神の正体
 豊前神楽は別名ミサキ神楽と言っても過言ではない。勇壮なミサキに関わる演目は観客にも圧倒的な人気を誇っているし、演じ手の側も豊前の特徴であるミサキの毛頭の毛を馬の毛を複雑に織り込んで垂直に立てるなど相当に気を遣っている。またミサキの配役は神楽全体の評価を左右する最も重要な要素となっている。しかし、このミサキとは一体何者なのだろうか。それを考える手がかりとなるがミサキの祭文である。ミサキが自らの出自や容貌、神楽庭に現れた理由や杖などの持ち物の由来を延々と語るのである。現在の豊前神楽では最早ミサキの語りはなくなっている。だが、祭文は一部残されているのでかつて語りがあったことは間違いない。ここでは比較のために、その種の祭文の中で中国地方最古とされる天正16年(1588)の荒平の祭文を部分的に抜粋してみたい(*16)。

荒平「偖て山高し 石は木をひしぎ瑠璃の地に花咲き繁り あやしき阿房らのものや住む・・・人に似ぬこそ御道理なれ。抑々荒平が百八千数(ももやちかず)生(お)いあがり、人更に見する眼(まなこ)は日月とうつしたるが如し、鼻高くして、物をかむ四十八の牙強くして物の骨を散散にかみ砕きなん、反噬(はんぜい)の舌長くして物の味ひを知る。抑々荒平が額の髪は天を指し生ひ上る。項(うなじ)に口あり、吹き出す風は・・・丈は一丈五尺、気は一尺。・・・抑々荒平が参るより道理なれ。山の大王殿よりも十二の山を給りて日本の内我がままに領したる時・・・御柴笹を盗み取られて・・・是より丑寅の隅へ立寄り見れば・・・日本秋津島へとりて来りたり。・・・入りましを今日と聞くをば綾延へて錦をならべてとくとくと踏ません・・・抑々荒平、御仏の前にて荒神となり、神の前にて御前(みさき)となる、有漏の凡夫の外道と成る。・・・仏神ともに我なり。・・抑々鈴と申はまことに仏の御声なり。鈴(れい)の声は仏の前にて錫杖と云ひ、神の前にて鈴(すず)と云ひ、法師のために衆生と云ふ。・・・抑々荒平がつきたる杖に三つの法籠もれり、上に大乗の法籠り、下に小乗の法籠り、中に瑠璃光の法籠る。・・・細きかたにて年老いたる人を撫づれば若やぐなり、太きかたにて死たる人を撫づればいきて繁昌するなり。爰を以てしはんぢやうの杖とは申なり。」(傍線筆者)

 次に豊前地方に伝わる、安政6年(1859)7月の長谷川保則宮司所蔵のミサキの祭文から関係する箇所を抜粋してみよう。

「初花のしげく開けし瑠璃の地魔王のものの伏ぞあやしき・・・是より丑寅に當りて悪風颯々と吹き来たり、赤き色なる大魔王、この御神屋に勢をなす。・・・汝は何者ぞ、速やかに退散せよ。・・・抑々、御前(みさき)と云うは一座神明の分身なれば、人と見えぬも道理なり。毛三尺にして、眼は赤酢将酉の如く、鼻は七咫、三尺三寸の紅舌を以て瓜体を喰せんとするに似たり。されば容貌(怪異)なりといえども、その心は知べからず。・・・或時は鬼畜木石に身をかる、肩には赤き天衣をかけ、腰には黒き衣をまとふ、しくはん杖を提げ、天地の間を飛行しみれば、国こそ多けれ。豊の前州上毛郡、今此神楽庭において・・・いりましをけふとしるさば、綾をはえ、錦をはへてとくと踏ません。・・・かおとの神事を企る事ならば三日先より荒神と吾をこそ祭るべし。・・・御鈴の利生にて飛び、此上は我つける処のしくわん杖を渡催、是を受納に於て福寿増永諸願成就にて・・・。」〔( )及び傍線は筆者付加〕(*17)

 全体として類似性が顕著であり、同系統のものであることが分かる。重要な点は、ミサキと荒神が神仏同体であり、再生の呪力を有した「しはんじやう」または「しくわんじょう」と呼ばれる杖を持って丑寅の方向に関わって出現することである。こうした怪異な容貌をもった鬼を神楽の場に出現させ、密教的ば法力によって善神に転化させることが神楽の主題ではなかったであろうか。ここには記紀神話のモチーフは全く現れていない。実は近世中期から後期以降、ミサキの語りを「封じ」、あるいはミサキ=荒神自体を強引に「猿田彦尊」や「素戔鳴尊」に転化しようとする圧力が高まる。それは神官の吉田裁許を通じて、あるいは国学系神主の関与によって次第に強まるが、決定的な弾圧は明治政府の神仏分離と明治3−4年、神祇院から出された「神職演舞禁止令」である。これによって神楽は民間に伝えられ、皮肉なことであるが、「民俗芸能」となるのである。

5.残された〈祈りのかたち〉
 以上見てきたように、神楽の原型は、加持祈祷であり、それは両部系や修験系の宗教者しか為しえないものであった。しかしながら日本の近代が強力に否定したのが、加持祈祷であり、両部であり、修験であった。そうした中世的なものを否定し、再解釈するために持ち出されたのが記紀神話に代表される「古代」であった。云わば古代と近代が手を携えた不思議な状況の下に神楽は投げ出されたのである。だが、連綿と培われてきた我々の精神の形はそう簡単に改変できるものではない。会場に乱入してくるミサキに次々と泣き叫ぶ子供を抱いてもらおうとする親たちや、需要の高さから別売りされる「しくわんじょう」の杖に、主役を失いながらも残された祈りの〈かたち〉を見るのである。

*1  本シンポジウムのパネラーである大村神楽講の小澤定昭氏がこの時の駈仙役で、演目は乱駈仙であったそうである。
*2  石塚 1979 pp.111-2
*3  かつては宗像八幡宮という名称であったそうである(宮司談)。
*4  柏木・有馬他 1996
*5  波多野 2003
*6  同上 p.42
*7  ここでは一般的名称を用いた。その議論については、橋本1998参照。
*8  例えば豊前蔵持山の神仏分離の記述の中に「当役宝泉坊文恵神仏両部の法式にて松柱登り松会作法此年限りに止む」の用例が見える。『神仏分離史料』第10巻、1984、p.204
*9  波多野、前掲書、p.41、後者はさらに湯立・火渡に関する切紙に関係する(後述)。
*10 中野 1977
*11 黒田 1980、衆徒の呼称は、桧原マツで有名な桧原山にも残されている。
*12 小野1991参照
*13 波多野、前掲書、pp.25-28
*14 岩田勝が纏めている安芸の国佐伯郡の中世後期とされる天刑星祭文」では、「迷故三界城」「悟故十方空」「本来無東西」「何処有南北」であり、各々接頭にウン・タラーク・キリーク・アクの梵字が付されている。岩田1990、pp.222-4、249-252参照。
*15 神呪は、部分的に転訛しているので修正した。さらに黒土神楽には「何として雪は氷の隔てなく溶くれば同じ谷川の水」など数種の火鎮めの呪文も伝わっている。
*16 以下の引用は、岩田1980、pp.5-11による。
*17 これと極めて類似する祭文が福岡県糸島郡二丈町の福井神楽に伝えられている。しかもこちらでは現在も実際に語りとして用いられている。

〔参考文献〕
石塚尊俊 『西日本諸神楽の研究』 慶友社 1979
岩田勝 『神楽源流考』 名著出版 1980
同    『中国地方神楽祭文集』 伝承文学資料集成16 三弥井書店 1990
小野清秀 『真言秘密両部神法加持祈祷奥伝』 青山社 1991
柏木實・有馬徳行他 『豊前岩戸神楽』系地区地域神楽調査委員会 1996
黒田俊雄 『寺社勢力-もう一つの中世社会』 岩田新書 1980
中野幡能 「求菩提山修験道の起源とその展開」 山岳宗教史研究叢書13 名著出版 1977
橋本政宣 「寛文五年『諸社祢宜神主等法度』と吉田家」 橋本政宣・山本信吉編『神主と神人の社会史』 思文閣出版 1998
波多野學 『筑前神楽考-遠賀御殿神楽』 渓水社2003
『神仏分離史料』第10巻 名著出版 1984

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〔第19回国民文化祭神楽シンポジウム基調講演〕