求菩提山修験道にみる観音信仰
恒遠俊輔(求菩提資料館長)
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《はじめに》
 「我も下化衆生(げけしゅじょう)のため分け入れば上求菩提(じょうぐぼだい)と名のる山かな」
 これは、聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)で熊野三山検校を兼帯していた道興(どうこう;1430〜1501)が、明応3年(1494)求菩提山に登った折に詠んだ和歌である。
 「上求菩提、下化衆生」とは、とりもなおさず、一方で、如来(仏)になるための修行に励みながら、他方では衆生を教化(きょうげ)済度するための誓願をもって働くという菩薩(求道者)の境地を示すものである。
 菩薩は大乗仏教のなかで発展したが、密教の時代に入って、「下化衆生」の誓願の中にかなり現世利益的な意味合いもあるところから、民衆の信仰対象として実にさまざまな菩薩の登場をみることになる。
 ここでは、数ある菩薩の中で弥勒と並んでもっとも古いものの一つとされる観音菩薩をとりあげ、求菩提山修験道における観音信仰について考えてみたいと思う。

《観音信仰の歴史》
 観音は、正式には観世音菩薩あろうは観自在菩薩と呼ばれ、巷間もっとも広く信仰されている尊格である。観世音とは、その慈悲行を強調した呼称と言われ、世間の人びとの救いを求める声(音)を観じて、ただちに救済の手を差し伸べるという意味である。また、観自在とは、一切諸法の観察や人びとを苦悩から解き放つことが自在であるという意で、その智慧行を強調しての呼び名だとされている。いずれにせよ、救いの要請があれば、時に応じ所に応じはたまたその悩みに応じて、観音菩薩は千変万化して衆生を導こうとするのである。
 その起源は定かではないが、『妙法蓮華経(法華経)』の「普門品(ふもんぽん)」第25が「観音経」と称され、観音菩薩がさまざまに姿を変えて衆生を救済するという「三十三応現身(おうげんじん)」を説き、これによって現世利益の本尊としての観音信仰が大いに広がったとされている。
 また、念仏行者の臨終に際し必ずや阿弥陀如来が西方十万億土の彼方から迎えに現れて極楽浄土へと導いてくれるという来迎思想が人びとの心をとらえる中で、観音信仰も自ずと高まりをみせていく。すなわち、浄土教経典の一つである『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』では、観音菩薩は阿弥陀如来の脇侍として勢至(せいし)菩薩と共に登場し、死者の極楽往生を助ける役割を担うのである。
 一方、密教にあっては、観音菩薩がもつさまざまな慈悲の働きを多面多臂(ためんたひ;多くの顔と腕を持つ)という形で表現してみせた。そして、平安時代に入って体系化された密教が導入されると、2臂の聖観音を基本形にしながら、十一面、千手(せんじゅ)、馬頭(ばとう)、如意輪(にょいりん)、不空羂索(ふくうけんさく)、准胝(じゅんてい)観音等々、種々の変化(へんげ)観音が創造されることになる。
 求菩提山における観音信仰もまた、こうした歴史的背景のもとに生まれたものであることは言うまでもない。

《本地仏としての十一面観音》
 仏・菩薩が衆生救済のためかりに姿を変え、この世に神として現れたものを「権現」と呼ぶ。そして、それは修験道の主尊とされるが、かつて求菩提山にあって山伏たちは二つの権現を祀った(二所権現)。その一つは、薬師如来を本地仏(ほんじぶつ)とし大己貴神(おおなむちのかみ)を垂迹神(すいじゃくしん)とする地主権現である。さらにもう一つは、十一面観音菩薩がかりに白山比刀iしらやまひめ)に姿を変えたとされる白山(はくさん)権現である。
 江戸寛政年間(18世紀末)、小倉藩主・小笠原氏を大旦那として求菩提山上宮の再建が行われたというが、其の時の棟札(県指定文化財)がいまなお求菩提資料館に保存されている。2メートル近くもあるその大きな棟札には、まず上部に十一面観音、右に薬師如来、左に阿弥陀如来の種子(梵字)が並び、その下に「仏法大棟梁白山妙理大権現本地十一面観音薩た(さった)という墨書が見える。
 また、室町時代の作と伝えられる十一面観音立像(県指定文化財・樟材・像高117センチメートル)も残されていて、さまざまな信仰が交錯する求菩提山修験道にあって、観音信仰がきわめて重要な位置を占めていたことを窺い知ることができる。むろん、求菩提山上宮に祀られた白山妙理大権現は、石川、福井、岐阜の三県にまたがるあの白山から勧請されたものにほかならない。
 御前峰(ごぜんほう)と大汝峰(おおなんじみね)、別山の三つの峰からなる白山の開山は、越前の行者・泰澄(たいちょう)が主峰の御前峰に登拝したことに始まるとされる。泰澄は、役行者に次ぐ修験道界の巨頭であるが、彼は、養老元年(717)36歳の折に九頭竜川を遡って白山(御前峰)へ赴き、白山妙理大権現を感得した。山頂には火山の噴火によって出来た緑碧池(翠ヶ池)があり、伝説によれば、この池から白山比唐ヘまず九頭竜王という9つの頭を持つ龍神の姿で現れた。泰澄がその姿に満足せず、さらに祈ると、それはやがて真の姿である十一面観音菩薩に変身したという。これが、白山権現のルーツである。
 さて、泰澄にはじまるこの白山信仰は全国へと伝播してゆくが、やがて求菩提山へも伝えられることになる。そして、求菩提の山伏たちは、11の顔を持つ変化観音に、すべての方向に頭を向けて人びとをあらゆる苦難から救ってほしいと願ったのであろう。また、そこに十一面観音の化身として9つの頭をもつ龍の登場をみるのは、水の神としての竜神への祈りであり、水田稲作にとって不可欠の水の源が山や森にあるところから、それは山岳への祈りにも連なっていくのである。

《三十三観音の石仏》
 求菩提山7合目付近で車を降り、左右に坊跡を見ながら杉谷の階段状の山道を登ると、かつて安浄寺(あんじょうじ)と呼ばれた寺跡に突き当たる。ここは山伏たちの葬儀がいとなまれたところであり、また盂蘭盆会には念仏供養が行われた場所でもある。
 安浄寺跡の左手奥の山の斜面に、石仏が並ぶ。三十三観音である。
 三十三観音とは、『法華経』の「普門品」の経説である観音菩薩が姿を変えて人びとを救済するという三十三応現身の数にちなんで、各種観音を集めて一組にしたものである。『仏像図彙(ずい)』によれば、それは、楊柳(ようりゅう)・竜頭(りゅうず)・持経(じきょう)・円光(えんこう)・遊戯(ゆうぎ)・白衣(はくえ)・蓮臥(れんが)・滝見(たきみ)・施薬(せやく)・魚藍(ぎょらん)・徳王(とくおう)・水月(すいてつ)・一葉(いちよう)・青頸(しょうきょう)・威徳(いとく)・延命(えんめい)・衆宝(しゅうほう)・岩戸(いわと)・能静(のうじょう)・阿耨(あのく)・阿摩提(あまだい)・葉衣(ようえ)・瑠璃(るり)・多羅尊(たらそん)・蛤蜊(こうり)・六時(ろくじ)・普悲(ふひ)・馬郎婦(めろうふ)・合掌(がっしょう)・一如(いちにょ)・不二(ふに)・持蓮(じれん)・灑水(しゃすい)の33尊をさす。
 むろん、求菩提の寺跡に並ぶ仏たちは永年風雨に晒されて磨耗し苔むして、今やどれがどの観音なのか明らかではないが、山伏たちがそれら石の仏に託した想いとは、何だったのであろうか。
 『法華経』の中で、「観世音菩薩はこの娑婆世界にどのようにしてあらわれるのですか」という無尽意(むじんに)菩薩の問いかけに、釈迦は「観世音菩薩は救う相手にふさわしい形をとってこの世に現れます」と答え、あるときは神々の姿となり、ある時には修行僧や尼僧になり、あるときは女性や子どもにもなる、さらには人間以外の動物や鬼霊などの姿をしてあらわれたりするとしている。また、「もしかしてあなたの隣にいる人が観世音菩薩かもしれない」と言ってみせたりもする(ひろさちや編『物語で読む法華経』すずき出版)。そして、この観音が無限に変化して現れるという発想は、行き着くところ、あらゆるものの中に観音菩薩が宿る、生きとし生けるもの、みな観音という結論にたどり着くのである。
 かの山伏たちも、山川草木ことごとくに、この世に生きとし生けるものすべてに観音の姿を見出し、大自然の生態系の微妙なバランスの上に辛うじて生かされて生きる非力な自分を自覚していたのではなかったか。安浄寺跡の三十三観音、求菩提山修験道の一つの出発点がそこにあるような気がする。

《如法寺の如意輪観音》
 求菩提山から10数キロ下った小高い山懐に常在山如法寺(ねほうじ;豊前市山内)がある。この寺の開山については諸説があり定かではないが、求菩提山とのかかわりで、その歴史がかなり明確になってくる。つまり、平安末期、如法寺は天台宗求菩提山護国寺の末寺(求菩提山六峰の一つ)であり、その北東方向(鬼門)に位置するところから、一つに鬼門封じの寺としての性格をもつものであった。またさらに、この寺は写経所としての役割をも担った(仏教では写経のことを「如法経」という)。ちなみに、求菩提山出土の国宝「銅板法華経」に執筆僧の一人として名を連ねている圓城坊厳尊(げんそん)は如法寺の住持であり、求菩提山のみならず英彦山の銅板経もここで刻まれたと『彦山流記』にある。
 鎌倉時代には、宇都宮氏が下野国から地頭職として豊前国に入り、如法寺もやがて宇都宮一族が座主を務めるなどしてその支配下に置かれることになる。そして、戦国期には寺は宇都宮氏の砦の如き様相を呈したという。天正16年(1588)宇都宮氏は黒田長政によって滅ぼされることになるが、宇都宮氏滅亡と共に、如法寺も兵火にあって消失、以後100年余廃墟と化した。
 江戸時代、延宝から元禄にかけて、如法寺は小倉・広寿山福聚寺の法雲禅師によって再興され、爾来黄檗宗の寺院としての歴史を刻むことになるのだが、今なお境内の各所にかつて修験道の寺院であった頃の名残をとどめている。本堂正面に安置されている如意輪観音像(豊前市指定文化財)もその一つである。
 この像は寄木造で、像高64センチメートル。数年前保存修理のために解体されたが、顔の表面に「応永32年(1425)」の墨書銘があり、室町時代の作であることがわかる。なお、江戸期に補修がなされ、その折に彩色が施されたと考えられるが、現在は製作時に近い姿に戻されている。
 天台系の修験道では、さまざまに変化する観音の中でも特に地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天の六道にあって衆生を教化(きょうげ)救済するという「六観音」信仰が盛んであるが、如意輪観音はしの六観音の一つである。経典や図像には、2臂・4臂・6臂・10臂・12臂の像の形が説かれているが、如法寺のそれは1面6臂、右第一手を頬にあてて思惟(しゆい)の姿をとり、左第一手は垂下(すいか)させ、他の手には如意宝珠(にょいほうじゅ)・念珠・蓮華・輪宝(りんぽう)を持ち、右膝を立て両足裏を合わせる輪王坐(りんのうざ)という姿勢をとっている。如意宝珠とは、これを持てば意の如くに財宝や福徳をもたらすという珠(たま)であり、輪宝(法輪)とは仏の教えのことで、知徳を満たすのだという。また、釈迦は太陽のごとき素晴らしい人格で、彼をシンボライズして太陽をかたどったものが輪宝なのだとも言われる。端的に言えば、それは財宝を与え迷いを打ち破る尊格であり、この観音に託した人びとの願いが自ずとそこに見えてくるようである。

《むすび》
 このほかにも、豊前市挾間の千手観音堂には平安末期の作とされる千手観音立像(国指定重要文化財・樟材・像高211.2センチメートル)が安置されている。求菩提山修験道との直接的なかかわりは定かではないが、この観音堂はかつて岩屋山泉水寺と呼ばれて、求菩提六峰を構成していた松尾山医王寺(大平村)の末寺十三ヶ寺の一つに数えられたところである。
 このように見ていくと、求菩提山をはじめとする豊前地方の修験道にあって観音信仰というものが信仰の重要な柱として位置づけられ、深く根付いていたことが理解できる。
 ところで、久保田展弘氏はその著書『修験道・実践宗教の世界』(新潮選書)の中で、「修験道は、人間と自然との呼応のなかから生れた宗教だ。人間は樹木のある自然のなかで生かされているのだという、この認識の根底に置く宗教が修験道だとも言える」と述べている。また「それは生命としての自然を畏敬することに出発していた。人は、自然のあらゆる救護の手のもとで、そのバランスの上にかろうじて生きている」とも記している。久保田氏のこの主張に、様ざまに姿を変えて救いの手を差し伸べるという観音菩薩に託したであろうわが先祖たちの想いを重ねながら、これからの我われの在りようをじっくり考えてみたいと思うところである。