求菩提山麓の仏たちと豊前の仏教信仰
林川英昭 (求菩提資料館)
求菩提山麓の仏たち
 昨年(2002年)10月1日より27日まで求菩提資料館において「求菩提山麓の仏たち」と題して秋の特別展が開催された。来館者にはなかなかの評価をいただきありがたく感じた特別展であった。
 この特別展にあたり、豊前市とその周辺の仏像などを集めたのであるが、そのときの体験したこと、思ったことと豊前という土地の仏教信仰との関係を、はなはだ簡単ながら考えてみたいと思う。
 特別展に先立ち、豊前地域の求菩提に関係ありそうな仏像を出来る限り集めて回ることになったのであるが、中には今まであまり知られていない仏像もあった。それらのほとんどは長い時間の経過のため、腕が欠落したりするなど甚だ損傷がひどく、いったい何の仏像なのかわからないものも多かった。一例をあげると豊前市岸井の仏像群がある。この中心となる仏像は地元では観音様として大事に祀られている。確かに観音のようにも思えるのだが、それと決定づけることは大変困難である。周辺の仏たちは平安期のものと考えられ、また、今回は展示しなかったが求菩提山に多く残る神像と同じようなものが祀られており、修験道と何らかのつながりがあると考えてもよかろう。
 また、この度は行方を確認できなかったのだが、同地区にある徳善寺(浄土真宗本願寺派)の経蔵には松尾山(大平村)伝来の釈迦如来像があったとのことである。(現在も経蔵には仏像があるが近代のものと思われる。)

山麓の仏たちと地域のつながり
 ところでこの岸井の観音像を資料館に展示のため移動したときちょっとした騒ぎが起こった。観音の移動に当たっては、岸井区長に許可を求め、区内の了承も得ていたはずなのに、「観音様が消えた」・「盗まれた」などと騒ぎになったというのである。私の目から見ると観音様には失礼ながら、とても普段より信仰を集めているとは思ってもみなかった。ところが意外に地元ではお参りしている人たちがいたのである。それも年寄だけとは限らないようで、子供たちの中にも観音様の前を通るときは頭を下げお辞儀をしていく子もいるというのである。こういうことは何も岸井区に限ったことではないようで、今回集めた中にも外に市丸区の仏像を移動したときにも同じようなことが起こったのである。こちらの方では、お堂を管理する寺の住職が騒ぎを大きくしないようにトタンでお堂を塞いでしまった。
 岸井や市丸などの小さなお堂に対する地域信仰は何も豊前地方に限らず、日本では各地に見られることである。しかし、あらためて豊前地域の宗教上の歴史背景を考えたとき、ほかの地域とは同一視できない仏教風土があったのではないかと思うのである。
 それを考えるきっかけになったのは、隣の椎田町高塚にある真光寺蔵の阿弥陀如来坐像について副住職の話を聞いたときである。
 副住職が伝え聞いたところによるとこの仏像は求菩提谷の川(岩岳川か)に捨てられていたのを見かけた人が、「もったいない」ということで持ってきたということである。この仏像は確かに壊れたところを何とかつぎはぎしている上、明らかに蓮台と光背は別物であり、初めからこの寺にあったものではないことは確かである。真光寺は浄土真宗の寺であるので阿弥陀如来とはいえ坐像を本尊には出来ないので中心にはないが、それでも余間(よま)の端に大事に安置されている。仏像が捨てられたのは明治の廃仏毀釈(1868〜)によるものと思われるが、この時、求菩提の僧侶や修験者たちの多くは自分たちの身を守るため、生活のためとはいえそれまで信仰していたものをどんどん捨てていった。しかし、山麓の民衆にはそんなことが出来なかったのである。仏は仏であり、神は神であって、どちらも敬いの対象であり、信仰の中心であった。山麓の人々は仏像を捨てる山伏たちに対し、「何ともったいないことを」と思っていたに違いない。

豊前の仏教的風土
 そんな気持ちを人々に持たせていた背景に豊前という地域の仏教風土があったと考えるのである。
 もともと豊前は求菩提や彦山などの宗教、特に仏教とかかわりが深かった。ただし、それがいつごろから民衆のレベルにまで浸透していたかははっきりしない。おそらく修験と民衆とのかかわりは近世に入ってからではないかと考えられる。それよりも農民などにとって深く宗教的に関わったのは中世末期の浄土真宗の進出であると考える。
 浄土真宗は親鸞によって13世紀のはじめ、京都や東海・関東地方で始まった念仏宗であるが、第8代蓮如によって爆発的に経線が広がった。この蓮如の時代、九州にも本格的に浄土真宗の教えが伝わった。特に豊前は九州と畿内を結ぶ、玄関口に当たり、蓮如の直弟子が現在の小倉・行橋や中津などに道場を構えていた。その後、江戸時代には仏教徒の大半は浄土真宗の門徒となっていたのである。寺院の中にも他宗派から浄土真宗に転派するものも出た。そういう中で民衆への布教も活発に行われ、豊前は安芸(広島県西部)や北陸とならぶご法地(教えが行き届いた土地)として知られるようになったのである。
 また、近世には豊前地域から浄土真宗の多くの学僧、和上(浄土真宗の場合、宗派を代表する学者を指し、勧学・司教という階級の者をいう)を排出し、豊前学派とよばれる一学派を形成していた。
 そういう土壌の上で、人々は仏教信仰を深め、真宗だけの信心を専らとするにとどまらず、社会生活全般の中においても仏教精神がいきわたっていたのである。そういうことから普段より「もったいない」「ありがたい」「おかげさま」というような心が人々に染みついていたと考えられる。そんなことを今回の特別展で気がつかされたのである。

歴史に学ぶこと
 近年は物があふれ、人々の心から「もったいない」というような気持ちが薄れてきている。今回の特別展ではその愚かさを私達に教えてくれているように思える。このような展示会から、ただ、ものめずらしさだけを見るのではなく、人間にとって大切なこと、忘れかけていたことを学ぶことができたと思うのである。
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