求菩提山護国寺の発掘調査
棚田昭仁(豊前市教育委員会)
 修験の山として知られる求菩提山は平成13年8月13日の国史跡指定を受け、今後の保存・整備・活用の必要性が以前にもまして取り組むべき課題として意識されるようになった。
 こうした情勢に対し、豊前市・豊前市教育委員会では、専門家による求菩提山史跡整備指導委員会を組織し、平成9年に策定した整備基本構想を叩き台として史跡求菩提山整備基本計画を平成14年度に策定した。併せて求菩提山史跡整備推進協議会を組織し、地元関係者から意見要望を計画に取り入れる体制づくりも行った。
 求菩提山の史跡としての重要性は専門家他にも十分認識されているのに対し、山内の遺構等の詳細な内容は意外なほど明らかなっていない。今後の整備・復元等を行っていくうえで資料は十分といえないのが現状である。その資料不足を補うために発掘調査による資料収集が必要となった。
 最初に調査のメスを入れたのは、かつての護国寺伽藍の多宝塔跡で、現在の国玉神社中宮社殿南側に位置する。中宮は頂上(781.6m)の上宮から130mほど下った標高642〜645mの東斜面に所在する。
 求菩提山護国寺は養老四年(720)に行善和尚が隼人の乱の際、勅宣により求菩提山で異敵調伏の祈祷を行い、その報賽として伽藍建立を勅許された鎮護国家の道場と『求菩提山雑記』には記されている。
 護国寺伽藍の内容は山門・食堂・常行堂・鐘楼・講堂・多宝塔などでこれらが中宮の北山殿・鬼神社・仮殿と同居する形で存在した。これらは東面した階段状に続く4段の平坦地とその両脇の1段低い平坦地とに配置されていた。多宝塔はこの中で一番高い4段目の平坦地に位置する。最上部平坦面中央には北山殿が位置し山道を登ると正面に相対することになる。この向かって右奥には納経塔があり、この右脇から上宮につづく鬼の磴が始まる。そして向かって左側(南)に多宝塔が建てられていた。
 護国寺伽藍のほとんどは江戸時代末まで存続していた。多宝塔については、明治33年に崩壊するまで現地に残っていた。この崩壊の際、将来の復元を期して作成された姿図が氏子達の手によって残されている。さらに塔の扉6枚も残されており、現在は求菩提資料館で保存・展示されている。また、現地では塔の基壇といくつかの礎石を見ることができる。
 姿図に見る塔の形は二重の層塔というべきもので、多宝塔の特徴である上重円形の部分が描かれていない。下重は方3間に4間の縁を持つ。
 調査前の現地の状況からもある程度の観察ができていた。基壇正面(東側)では長方形の石材を用いて2段に構成された化粧石がほぼ完全に残っていた。基壇の両側では2段目の石材はみられず、1段目で全体の1/3程度が原形をとどめていた。後背面(西側)では斜面から流れ落ちた赤土の堆積もあり、何も観察できない。礎石は埋没せず地表に露出しており、正面3間の一列とその両側からのびた1間ぶんの礎石と中央に塔心礎の計7個が確認できた。
 発掘調査では現状の観察できなかった基壇後背部の区画の確認と失われた礎石の根石等を確認し、礎石の配置を明確にすることと、これらを図や写真で記録し、資料化することを主眼とした。
 その成果として、基壇後背側の調査結果は表面の化粧石は失われているものの、裏込めかまたは根石と思われる列石を確認し、基壇西側の区画ラインを確定させた。その結果、基壇の規模は8.6×8.6mで、方形であることが確認された。
 礎石についての調査は、南側の正面手前から二間目の根石が確認できたが、他の礎石の失われた箇所では根石等を確認できなかった。原位置にのこされていた礎石からは塔心礎を除き、中央付近に細かい線刻で十字が刻まれているのが発見された。この十字の線は縦横それぞれに並ぶ他の礎石に刻まれた線と同一直線上に並ぶもので、築造時に目印として付けられたものと思われる。恐らく柱の中心位置を示すのだろう。これと同じ十字を付けた石が基壇上の北側中央付近に転がっているのがみられる。北側中央の失われた礎石とみていいだろう。調査でわかった柱の配置は方3間で、正面中央間が心々1.95m、それ以外は心々1.6mを測る。縁は方4間に並び、正面の脇間が1.9m、中央2間はそれぞれ1.8m、両側は脇間1.9m、中央2間はそれぞれ1.6mを測る。塔心礎は多宝塔に本来存在しないもので、これが心礎というならば、この塔はやはり多宝塔ではなく、層塔とみるべきだろう。これについて、氏子の西尾香槻氏のご教示では崩壊後に塔の心柱を運び出し鬼神社に収め、今も保管しているという。とするならば、崩壊時の塔は紛れもなく層塔形式だったと考えるのが妥当であろう。しかし塔心礎を観察すると、厚さが12p前後の板石を用いており、他の礎石の1/3から1/4程度の厚さしかない。層塔の塔心礎は礎石の中でも最も立派な石材を用いるのが通例で、このように貧弱な塔心礎は普通考えられない。恐らく、この塔心礎は創建時には存在しなかったもので、再建時に新たに加えられたものではないだろうか。他に礎石に刻まれた十字の線刻もこの再建時に加えられたもの(江戸時代か)かもしれない。時期としては、まず創建は、頼厳上人以前の求菩提については史料的裏付けがないことから、最も古く考えて平安後期だろう。創建時には本来の多宝塔の形式で建てられていた可能性もある。それが再建された際、二重の層塔となったが、以前より言い習わしてきたとおり、そこにある塔を多宝塔と呼び続けたとも考えられないだろうか。
戻る