宮田遺跡出土の土製経筒鋳型について
木村達美 (犀川町教育委員会)
経筒鋳型の発見
平成13年1月。県内版の新聞各紙で「犀川町で経筒の鋳型を発見!」という見出しの記事が紹介されました。これは平成11年度に調査が行われた宮田(みやだ)遺跡の出土品のうち何らかの鋳型であろうと考えられていた土製品が、関係機関の協力による検討の結果、経筒の鋳型に間違いないとの事実が判明し、併せてこれが本邦初の発見になるということが確認されたためです。
経筒は一般に山岳信仰の遺宝として知られ、とりわけ豊前地方ではその傾向が強く、多くの遺品が英彦山をはじめ豊前六峰やそのゆかりの霊山・霊場に伝えられています。中でも求菩提山はそのメッカとして質・量ともに優れた遺品を伝えることはよく知られているところですが、これだけ多くの遺品がありながら、その製造工程や技法など工芸的分野の情報を語る資料は乏しく、この分野の究明は今日まであまり進まないまま来たのですが、今回の発見はその「すきま」を埋めるものとして注目されています。
出土鋳型と遺跡の概要
鋳型は3点確認されており、何れもスサ(わら)入りの粘土で外形をつくり、製品の肌が接する部分には真土とよばれる非常にきめの細かい土を2層ほどにわけて塗って仕上げているのが特徴です。大きさはそれぞれ全長が12p四方前後、500gほどの重さがあります。ただ、製品取り出しの際、こわされた部分の残りであるため本来の形状や法量については不明ですが、大きさについては概ね完成品を若干上回る程度(40p前後)の大きさと思われます。形状から製品の形を二分してつくる「組み合わせ鋳型」であることもわかりました。
現状の鋳型の形は断面が半円形で直径6.5pほど、端に10mmほどの覆輪状膨らみを持つのが特徴です。これはとくに「求菩提型」とよばれている経筒の特徴で、今回の発見もこの部分がたまたま残っていたことがきっかけでした。このほかに製造時に銅を溶かす炉の一部や、それを乗せ置くための石組み。重要な原材料としての木炭や操業後の廃材としての焼土や灰など、鋳物操業を裏付ける遺物が多数出土しています。
なお、遺跡の年代は12世紀前半頃と見られており、経筒製作の盛期と重なるほか、この時期の鋳造に関する遺跡は京築地域はもちろんのこと九州でも太宰府・鉾ノ浦(ほこのうら)遺跡を除いては発見されておらず、生産遺跡としても貴重な存在として注目されます。
鋳型から見えてくる平安期の豊前
今回の発見は発見地の犀川地域はもちろん、広く豊前地方における平安期の社会や文化についても貴重な所見をもたらしてくれました。
これまで、経筒の製作母体については、太宰府や国衙の工房や職人のみが想定されていましたが、豊前の宗教権威である宇佐宮(うさぐう)にもあったことが想定されるようになりました。というのも、今回の発見により改めて文献や現地の聞き取りを行ったところ、遺跡は小字を宮田といい、地元山鹿区の産土神である五徳(護得;ごとく)八幡宮をお祀りしていることがわかりました。この八幡宮の由来は地元でも全く解らなくなっていたのですが、平安遺文や岩清水文書によれば、遺跡を含む一帯が護得荘(ごとくのしょう)という弥勒寺(宇佐の神宮寺)領荘園であったことがわかり、同宮はその鎮守社として勧請された可能性が高いことが分かってきたのです。
遺跡周辺には土井の下、細工園(さいくその)・居屋敷・竹(館)ノ下等の典型的な領主館の小字が残り、宇佐宮の権威を恃む名主級以上の支配者の存在が浮かび上がってきます。おそらくはここの館の主が経塚供養を発願して経筒作りの職人の派遣を領家である弥勒寺(あるいは宇佐宮)に依頼し、いわゆる「出吹(でぶき;出張製作)による経筒作りをした臨時工房跡と考えられるのです。
このように、わずか3点の遺物ながらその携える情報は頗る多く、「豊の文化」解明への興味は尽きません。