中世文書から見た求菩提山
林川英昭 (求菩提資料館)
 求菩提山国玉神社に伝わる中世文書は全部で60通(数量は74)あるが、ここで取り上げたいのは室町時代の以下に掲げる44通である。

    年号(西暦)     文書名
1  応永26(1419)  大内盛見奉行人連署奉書
2  永享3(1431)  求菩提山領田地坪付
3  (年号欠)     大内持世書状
4  永享8(1436)  求菩提山領一部百姓坪付名寄帳
5  (年次欠)     求菩提山四至傍示状
6  文安元(1444)  大内教弘禁制
7  応仁2(1468)  大内政弘奉行人連署奉書
8  (文明元年ヵ)  少弐頼忠奉行人連署書状
9  文明3(1471)  大友親繁年寄連署書状
10 (文明3年ヵ)   大友親繁年寄連署書状
11 文明3(1471)  上毛郡奉行人都合惟理・小田親清連署打渡状
12 明応3(1471)  聖護院宮道興和歌
13 明応6(8年ヵ)  大友親治書状
14 (明応7年ヵ)   大友親治書状
15 明応8(1499)  大友親治年寄連署書状
16 (明応8年ヵ)   大友親治年寄連署書状
17 大永6(1526)  求菩提山権現御敷地四至注文
18 大永6(1526)  大内義興安堵状
19 (大永7年ヵ)   大内義興奉行人連署書状
20 大永7(1527)  大内義興奉行人連署奉書
21 大永7(1527)  求菩提山法度
22 大永7(1527)  上毛郡奉行人能美弘助打渡状
23 享禄2(1529)  大内義隆判物
24 (年号欠)     大内義隆書状
25 天文17(1548) 大内義隆奉行人連署奉書
26 天文17(1548) 飯田興秀条々事書
27 天文17(1548) 上毛郡奉行人山田成一書状
28 天文20(1551) 飯田興秀書状
29 (天文20年ヵ)  大内義隆書状
30 天文21(1552) 大内晴英(義長)安堵状
31 天文21(1552) 大内晴英(義長)禁制
32 天文23(1554) 大内晴英(義長)書状
33 (年号欠)     大内義長書状
34 永禄2(1559)  田原親賢安堵状
35 (永禄2年ヵ)   大友義鎮年寄連署書状
36 (永禄4年ヵ)   大友義鎮年寄連署書状
37 (永禄5年ヵ)   大友義鎮書状
38 永禄6(1563)  聖護院宮盛照書状
39 永禄9(1566)  大友宗麟安堵状
40 永禄9(1566)  臼杵鑑速施行状
41 (永禄9年ヵ)   臼杵鑑速書状
42 (永禄9年ヵ)   臼杵鑑速書状
43 (年号欠)     大友宗麟書状
44 (年号欠)     大友義統書状
 *文書番号、推定年号、文書名は『北九州歴史博物館研究紀要1』(1979年)による。

 これ以外にも中世文書はあったのだろうが、紛失したのか故意に破棄されたのか、これだけしか伝わっていない。また、山以外の中世求菩提に関する史料もほとんどなく、これらの文書を補完することも難しいが、なぜこれらの文書のみが残されたのかを考えるとき、中世の求菩提山のおかれていた状況や生き様のようなものが見えてくる。文書一つひとつを検証することは出来ないが、全体的な特徴を見ながら、中世の求菩提山の一面を覗いてみたいと思う。
 さて、これrの文書のうち、12・38号文書は聖護院関係のもので、この2つは聖護院と求菩提山という本末関係を証明する文書として大切に伝えられたと考えられるが、それ以外はすべて当時の豊前国の武家支配者との関係を物語るものである。九州でも求菩提山のある北部地域では室町時代には政治的安定を欠いた地域であった。南北朝の争乱にしても、単に南朝・北朝の対立に止まらず、それに加え足利政権内部の対立が持ち込まれたため、非常に混乱を極めており、九州の守護や国人たちは右往左往していた。中央で南北朝が合一されても、九州ではなお尾を引いており、豊前国には大名が成長しなかった。そのため支配者も次々変わり、求菩提山もその度に新しい支配者に気を遣わねばならなかった。それが1〜7号文書は大内氏、8号は少弐氏、9〜11号・13〜16号文書は大友氏、17〜33号文書は大内氏、34〜37・39〜44号文書は大友氏と見事当時の豊前の勢力争いの状況を反映している。豊前国は九州の玄関にあたり、おもに山口の大内氏、府内の大友氏、それに大宰府支配の復権を狙う少弐氏らが、政争を繰り返していた。都合の良い文書だけが残されていることも考えられるが、求菩提山が上手に世渡りをしているようにも見受けられる。
 その中で弘治年間から永禄年間にかけてのころ(1555年ころ〜1560年代)、求菩提山にとって大きな危機がおとずれていた。それはそのころ豊前国を支配していた大友宗麟に対し、豊前から筑前各地の国人・土豪たちが中国の毛利氏と結んで反乱を起こしていた。さらに毛利氏そのものも九州への進出を計り、永禄4年(1561)秋には門司城をめぐる戦いで大友軍は毛利軍に大敗を喫している。当然、求菩提山にも動揺があったであろう。また、上毛郡地域の国人たちはおおむね毛利寄りであったと見られ、ここで大友氏を見限ることも考えられると思うが、敗戦後、後退した大友氏陣所に陣中見舞を出したことが次の文書からわかる。
 〈36号文書〉
 就至其表出張衆」、陣所之儀示給候之趣」、具令被閲候、様体必至」、御座所可達 上聞之条」、御下知之旨、追而可令申候」、猶期来喜閣筆候、恐々」謹言
            十二月十七日       (臼杵)鑑速(花押)
                            (吉弘)鑑理(花押)
                            (戸次)鑑連(花押)
     求菩提山
        衆徒中
                      *文中アンダーラインは筆者が追記

この文書には年号がないが状況から見て永禄4年と見られる。よって、大友氏敗戦後、出されている。結果としてその後毛利氏は九州進出を断念し、大友氏の豊前支配は続いたので求菩提山のこの行動は正しかったといえる。それだけの判断材料があったのか、それともあくまで大友氏支持を貫こうとしたのかはわからない。しかし求菩提山存続のための必死さは伝わってくる。
 それに対し、事情も規模も違うが、天正9(1581)年に彦山は反大友の行動に出たため、焼き打ちにあっている。戦国時代、神社も生き残りをかけて大変な時代であった。
 次にこれらの中世文書が大切に伝えられた意味を考えてみたい。
 中世文書の中身を見ると多くは求菩提山の寺領に関係していることがわかる。2・4・5・17号文書はもちろんであるが、それ以外の文書も求菩提山領を守るための約束事を取り付けた証文であり、そのための支配勢力へのご機嫌伺いである。特に中世の求菩提山にとって最大の懸案は、如法寺氏との所領争いであった。1号文書の内容からすでに南北朝時代から如法寺氏による寺領の一部押領が始まっており、求菩提山はたびたびその非法を訴え出て、おおむね勝訴している。
 しかし実際の状況としては如法寺の押領は止まなかったと思われる。なぜなら、室町時代の約200年間同じような訴訟を繰り返さねばならなかったからである。結局、如法寺氏が黒田孝高に滅ぼされる天正15年(1587)まで押領は続いたと思われる。ただ、求菩提山にとってどこまでが寺領であったかを後世にもはっきりさせるため、そして訴訟ごとにも勝ってきたことを証拠として残すためこれらの文書が大切に扱われて来たことは十分考えられる。
 如法寺はもともと求菩提六峰の一つで写経寺であったが、鎌倉時代の初めごろ、宇都宮信房の三男、信政が座主として入寺(1186年)し、その後国人領主化したといわれている。本来なら如法寺は求菩提修験の一翼を担い、両者は親密な関係を持たねばならにのだが、すでに国人化した如法寺氏は求菩提山から独立しており、協力するどころか逆に勢力を拡大する過程で、求菩提山領を侵していたのである。
 古代、中世において寺社の領域は聖地として不可侵な場所であった。しかし実際には中世も南北朝・室町期になると国人領主や守護の成長に伴い、武家による寺社領の押領は進んでいたと思われる。そうしなければ如法寺氏のような庶家豪族は生き抜いていけなかった。
 それに対し求菩提山は当然必死に抵抗する。直接武力に訴えることは無かったようだが、如法寺氏のさらにその上の支配者に巧みに取り入ることで寺領の保全につとめようとした、そんな様子が中世文書から見て取れる。
 以上はなはだ簡単であり、推測の域も多いのだが、中世の求菩提山の政治的側面を垣間見ることは出来なのではないかと思う。

【参考文献】
『豊前市史』(1991年)
『北九州市立歴史博物館紀要1』(1979年)
『鎮西宇都宮氏の歴史』(則松弘明著)(1996年)
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