求菩提山の史跡指定申請について
栗焼憲児 (豊前市教育委員会)
 今年度、豊前市教育委員会は長年の懸案であった求菩提山の史跡指定を文化庁に申請した。その対象となる面積は、1,575,835.49uで(内豊前市分 1,453,028.49u、築城町分 122,807u)にものぼり、求菩提を中心として、岩洞窟、如法寺の大きく3地点に分けられる。その内、求菩提山本体が86.5%を占め、如法寺が12.1%、岩洞窟が1.4%となっている。土地の所有に係る内訳は国有地が37,072.09u、市有地17,539.78u、公有地38,840.60uで、民有地が最も大く1,476,328.53uを占める。地目別に見ると、山林がほとんどで93.6%、道路(県道・里道)水路が2.6%、田畑が1.7%などとなっている。
 求菩提山の調査は古くから行われており1909年(明治42)には既に「豊前国求菩提山国魂神社蔵経筒」と題する一文が地元郷土史家の岡為造氏により、考古界(8編2号)で紹介されている。その後、戦前、戦後を通じ地元の研究者により多くの研究がなされている。1960年代になると前求菩提資料館館長重松敏美氏により積極的な調査と保存が開始され、1966,67年に実施された「求菩提山民俗資料緊急調査」をもとに記された「豊щ&提山修験道文化攷」は求菩提山を学問的に体系化し、客観的に分析した点で現在もなお研究の基礎資料として高い評価を得ている。また、1975年からは福岡県教育委員会の指導による「求菩提山修験道遺跡緊急発掘調査」が開始され、さらに、1980年からは「如法寺遺跡緊急発掘調査」も開始され、1989年から行われた求菩提山修験道遺跡詳細分布調査を経て、求菩提山修験道遺跡群の基礎的な調査はほぼ終了したといえる。
 こうした調査の結果、1953年には「銅板法華経・銅筥」が国宝に指定され、求菩提山の中心部も1971年に福岡県指定史跡となった。同時に「求菩提山文書」が県指定有形民俗文化財に、さらに1976年「求菩提のお田植祭」も県指定無形民俗文化財となった。そして1978年には「求菩提山経塚出土品」が重要文化財に指定されるなど、その重要性は高い評価を得てきた。
 現在、資料の多くは求菩提資料館に収蔵されており、年間30,000人にも及ぶ来館者に公開されている。
 今回の指定申請を受けて、今後はその整備に向けての議論が行われることになるが、既に策定されている基本構想に従った整備構想が策定されることとなる。その基本構想によれば自然環境を生かした、修験本来の意味に則した整備を基本とすることとなる。つまり、構造物の建設であるとか、新たなルート整備であるとか、現状を大きく変えるような整備は行わず、求菩提資料館をビジターセンターとし、山の再生を目指すものとならなければならない。
 今、求菩提の山は荒廃の速度を速めつつある。自然災害に端を発した荒廃は、住むものの無い山を否応無く衰退へと導いている。それが自然に帰すると解釈するのか、否、そこに残された歴史的遺産の崩壊とするのか、的確な答えは持ち合わせていない。が、少なくとも現代人が失いつつある自然との共生がそこにはある。その歴史を後世に伝えるためにも、求菩提の山は今、我々が守らなければならない歴史的遺産なのである。
 山を守り、維持し、再生を図ると言うのは軽々に論じることの出来ないさまざまな問題を内包している。今後策定されるであろう整備構想と、それに伴う実施計画については、そこに生きる人たちとの議論を無くしては成し得ないものである。
 いかに守り、いかに活用するのか、多くの議論を望みたい。
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