求菩提修験道と龍神信仰
恒遠俊輔 (求菩提資料館長)
 求菩提山修験道には、さまざまな信仰が交錯している。そのなかでも、「龍神信仰」は重要な柱の一つをなすのではないかと思われる。
 古来、龍神は水の神、水を治める神とされた。その龍神に対する信仰は、農業信仰とのかかわりでとらえられるものであり、水田稲作にとって欠くことのできない水の源が山にあるところから、それは山岳への祈りにも連なっていく。したがって山に生まれ森に育まれた宗教である修験道にあって、龍神信仰はその原点ともいうべきものなのである。
 さて、求菩提山には随所に龍が登場する。

《上宮棟札》
 江戸寛政年間(18世紀末)に小倉藩主・小笠原氏を大旦那として、求菩提山上宮の再建が行われたというが、その折の棟札がいまなお保存されている。2メートルちかくもあるその大きな棟札には、まず上部中央に十一面観音菩薩、右に薬師如来、左に阿弥陀如来の種子(梵字)が並び、その下に「仏法大棟梁白山妙理大権現本地十一面観音薩た」という墨書が見える。
 また、室町時代の作と伝えられる木造の十一面観音立像(樟材・像高117センチメートル)も残されていて、求菩提山修験道では本地垂迹説に基づき、十一面観音を本地仏、白山比唐垂迹神とする「白山妙理大権現」が主尊として祀られていたことが窺える。そして、それが石川、福井、岐阜の三県にまたがるあの白山から勧請されたものであることはいうまでもない。
 御前峰(ごぜんほう)と大汝峰(おおなんじみね)、別山の三つの峰からなる白山の開山は、越前の行人・泰澄が主峰の御前峰(2702メートル)山頂に登拝したことをもって始まるとされる。
 泰澄は、役行者よりやや遅れて歴史に登場するが、役行者に次ぐ修験道界の巨頭であるが、彼は、福井の南方、麻生津の出身で、はじめ越知山(おちさん)で修行していたが、養老元年(717)、36歳の時に九頭竜川を遡り、白山(御前峰)へと赴き、白山妙理大権現を感得した。白山山頂には火山の噴火で出来た緑碧池(翠ヶ池)があり、白山比唐ヘまずこの池から九頭竜王という九つの頭を持つ龍神の姿で出現した。泰澄がその姿に満足せず、さらに祈念すると、それはやがて真の姿である十一面観音に変身したという。これが白山権現のルーツである。
 ちなみに、泰澄は、白山妙理大権現に加えて、大汝峰で大己貴神(本地阿弥陀如来)を、また別山で小白山別山大行事(本地・聖観音菩薩)を感得し、その後一千日行を修して下山したと伝えられる。
 やがて、泰澄にはじまる白山修験は全国に伝播していくが、そのひろがりのなかで、求菩提山へもそれが持ち込まれたのであろう。

《龍図》
 求菩提山修験道の中心を担った天台宗寺院・護国寺へ小倉藩主・小笠原氏から贈られたという「龍図」(紙本・縦100センチメートル、横117センチメートル)一幅が、求菩提資料館に保存されている。
 それは、江戸時代後期の南画家・紀時敏の筆になると言われる。彼は梅亭と号し、与謝蕪村に師事。晩年は江州大津に住み、山水画を得意とし、「近江蕪村」の異名をとった。
 龍は「想像上の動物。巨大なへびの形をしており、全身うろこにおおわれ、角と鋭いつめを持ち、雲を呼び雨を降らせることができる」と辞典(『大漢語林』大修館書店)にあるが、紀梅亭によって画面いっぱいに描きだされた龍の姿はなかなかの迫力である。
 この「龍図」は、かつて雨乞いの祈願の際に用いられたとされていて、いわば求菩提山修験道を特徴づける貴重な資料と言うことができる。

《松会》
 旧豊前地方の修験道寺院で行われた「松会」も、龍とのかかわりを持っている。松会は、山伏たちが五穀豊穣を祈願する祭で、「神幸祭」「田行事」「幣切り行事」の三つで構成されたが、いわばその舞台装置に、龍神信仰を見ることができるのである。
 祭が繰り広げられる広場を「松庭」と称し、松庭の中央に立てられた柱を「松柱」と呼ぶ。松庭ではお百姓の一年間の農作業を真似た「田行事」がユーモラスに演じられ、また、祭の最後を飾る「幣切り行事」では、山伏が御幣を持って松柱にのぼり、柱の頂から真っ白な御幣を切り落として、五穀豊穣を祈る。切り落とされた御幣は神の御種子であり、それは松庭にまかれた籾と交合し、その年の稲の豊作が約束されるというわけである。
 ところで、松柱の頂は8つに割られていて、それは「八大龍王」を意味していると言われる。八大龍王は、倶利伽羅龍王や善女龍王と共に仏教で信仰される龍王のいわば代表格であるが、出典の『法華経』の守護神という性格に加えて、多くは山の頂に祈雨の本尊として祀られるものである。
 なお、松柱は3本の控え縄によって支えられるが、これまた雌龍、雄龍、子龍を表しているのだという。

《龍生淵》
 求菩提山の南方、犬ヶ岳の山中に「恐ろし淵」とか「恐ヶ淵」とか呼ばれる淵がある。登山口から1時間ばかり進んだ処に位置している。その直径は10メートルほどもあろうか。深さは最大5メートルだという。陽が差し込むこともなく、絶えず薄暗くて、そこを覗くと「恐ろし淵」という名の由来が分かるような気がしてくる。
 さて、この淵は、「龍生(りゅうおうぶち)」という別名を持っている。そう言われれば、淵の底からふいに巨大な龍が頭をもたげてくるようにも思えてくる。豊前市をほぼ縦断して周防灘へと注ぐ岩岳川の水源のひとつが此処にあるという意味で、水神としての龍が生れるという呼称が用いられたのであろう。求菩提山の山伏たちは、秘文を書いた亀の甲羅をこの淵に投げ入れて、吉凶を占ったという。

 以上、求菩提山に登場する龍をひろいあげてみたが、求菩提山修験道が龍神信仰、言い換えれば農業信仰と不深くかかわっていることが理解できる。
 ちなみに、求菩提山には、龍と同様想像上の動物である「天狗」も登場する。それは「次郎坊天狗」と呼ばれ、火伏せの神として人びとの信仰を集めた。火伏せとは火を鎮めることであり、火を鎮めるのは水であり、天狗はすなわち水の神だということになる。
 求菩提山から10数キロ下ったところに豊前市大字挟間という集落があり、そこに、今はもう途絶えてしまっているが、かつて「天狗拍子」という「楽」が伝えられていた。それは干ばつの折に白装束の山伏姿で舞われる雨乞いの楽である。
 こうしたことを考え合わせれば、天狗もまた農業信仰とのかかわりのなかでとらえられるべきものということになろう。
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