《岡爲造氏遺稿》  求菩提山玄海法印と中津扇城
 中津市在住の丹羽隆氏より、求菩提修験道研究の魁とも言うべき故岡爲造氏の執筆になる「求菩提山玄海法印と中津扇城」という一文のコピーを頂戴したので、ここに再録させて頂くこととした。
 ちなみに、この一文は昭和13年(1938)8月27日付の『豊юV報』に掲載されたものである。

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 先日中津史談會主催で靈峰求菩提登山の際、余も病身の身をおして其の一行に加へて貰つたが、會員中に中津と當山の關係に就いて聞きたいと云ふ人がだんだんあつた、今吉少将、稲葉先生等當山に就いて詳しいお話があり是にて殆どつくして居るが、中津と當山の關係にはあまりふれて居なかったやうだから、その關係を本紙上で聊か述べて見よう。
 豐鐘善鳴録といふ書物の中に、釋玄海は豐前の人、幼にして求菩提山に登り髪を剃り、次で比叡山に登って天台の教義を究め、後ち求菩提山に歸り無量壽院に位した。此の僧工技に長じ、豐筑に遊び多く佛神の像を刻した、元和の初め山城國愛宕山に抵り、千手觀音の像一千躯を刻し、堂を建てて是を安置し、また愛宕の神像を求菩提山に請じ祠を建てて祈った、かくて寛永三年二月五日正午無量壽院に示寂したとある。
 また宇佐郡記を見ると、黒田孝高(如水)中津川丸山に扇形の縄張りをし、求菩提山玄海法印を召て地鎮の祈をなさしめ、天正十六年正月十一日より中津城修築を始めたとある。
 次に、中津興廢記を見ると、中津皇原長邑の正徳六年六月、澤渡清左衛門六十三ヶ條の條目を作り頗る過酷を極めたが、其の際有司相謀り、諸山諸寺の代參を停め、供科の定額を減じた、それで求菩提山奥ノ坊第一に抗疏していふには當山中興玄海法印中津築城の際、地鎮の祈をなししため、是迄祈祷米を中津御城より貰つて居る、それで是等や御供科、御香科等前々通り下さる樣御願ひ申す、御祈祷札も從前通り納めたい云々と申出たとある。
 求菩提山には、もと寺とか院とか、坊とか名のつくものが澤山あり、多くは妻帶の山伏が住んで居たが中には清僧の居つた所もある。當山の記録を調べて見ると、無量院というがあり、また奥ノ坊といふもある。もと奥ノ坊といふは、現神職宅附近にあつたものであるが、其の近くに玄海母と刻した墓標が現存し、此處にかすかに玄海と讀まれる墓標もあつたといへば、玄海永眠の地はここであろう、此の玄海の勸請したといふ愛宕社は西谷徳光氏宅附近に現存し、目下國玉神社の末社と云ふことになつて居る。
 猶豐後國志大分郡神祠の部愛宕祠の處に、高田郷海原村にあり、寛永初豐前求菩提山の僧慧觀法師此處に至り、神感に依り京の愛宕神をここに勸御したとあるが、玄海は、豐筑を廻りて多くの佛神の像を刻し、愛宕神を崇拝したことよりみると慧觀法師とは玄海の一名ではあるまいか、記して後號を俟つ事とする。
 以上述べし如く、求菩提山と中津扇城とはかかわる深い關係をもつて居る事出あれば、中津人士は舊誼を暖めるために時折當山に登つてほしい、目下非常時、心身の鍛錬にも絶好の場所である。此の度の中津史談會主催で求菩提登山をやつたのは實に意義深いことで、玄海法印も草葉の蔭からさぞ喜んだことであらう。

岡 爲造(おかためぞう)
 1886年3月15日、福岡県築上郡吉富村(現在の吉富町)に生まれる。大分師範学校卒業後、日本史・東洋史・西洋史の中等教員検定試験に合格。1919年から永年にわたって築上高等女学校の教壇に立つ。終生郷土研究に取り組み、考古学・民俗学・人類学的研究に幾多の功績を残した。わけても、1929年以降「築上史談会の副会長として同僚と共に求菩提山の研究に励み、『豊前求菩提山調査書』を著すなどしてまさに求菩提山研究のさきがけをなした。1957年4月13日病没。行年71歳。
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