角田ン谷の修験道関連遺跡
棚田昭仁 (豊前市教育委員会)
 豊前市教育委員会は平成9〜11年度にかけて豊前市内の遺跡分布地図作成を目的とした遺跡分布調査を国・県の補助を受けて実施した。この調査の過程において、いくつかの窟・経塚等の山岳修験関連の遺跡を確認した。もちろん、これらは求菩提山との関連において理解されるものである。その分布は四至の外では峰入りのルートや末山・末寺へのルート上に点在することが、予想どおりに確認できる。
 しかし、文献に知られている末寺や宿などでも、地名が記載されているにも関わらず、意外と正確な場所までは不明なものがいくつかある。今回行った市内遺跡分布調査の成果の分析を含めて、詳細が不明となっている末寺等の所在地を明らかにして行くことが今後の課題となろう。
 今回の報告は通称「角田ン谷」と呼ばれる地域をとりあげたい。豊前市域の平野は角田川、中川、岩岳川、佐井川の四河川とその支流によって形成されたものである。この中の角田川は豊前市のもっとも西側を流れる川で、国見山に源を発し、上流は「畑の冷泉」で親しまれている畑を流れ、馬場、中村を通り、松江で周防灘に注ぐ。この角田川の流域を土地の人たちは通称で「角田ン谷」と呼ぶ。

竹の下の窟
 竹の下集落の北側の山裾に東側に対面して、窟が所在する。窟は高さ約10メートルの凝灰岩の露頭が岩陰状になった崖面を利用している。窟前面の両裾には、高さ約4メートル・径約7メートルほどの巨岩が門のように座っており、その上にはそれぞれ、石造の不動明王が門番のようにたてられている。この間の石段を3メートルほど登った処に四畳半程度の平坦面があり、これに面した崖面に高さ約2.2メートル、幅1.8メートル、奥行きが基底で約1メートルほどの方形の掘込みがある。これは龕というより、おそらく木造の祠が嵌め込みの形で存在したのであろう。掘込みの高さ約1.9メートルで段がみられ、実際に祠の本体が嵌め込まれていたのは、この高さまでと思われる。現在、ここには高さ約60センチメートル、幅約30センチメートルの自然石が祀られている。その横には、まだ新しい陶製の龍がおかれていた。
 この窟に向かって左側約30メートルほど崖面に間口25メートル程度の洞穴が開口している。ここの奥壁からは水が湧き出しており、洞穴の中は湿地の状態である。湧水は現在も利用されているようで、水を通すパイプやホースが何本も民家へ向かって延びている。この洞穴から湧く水に対しての信仰が隣に所在する窟で行われるようになったのだろう。窟におかれていた「龍」から「龍神」すなわち「水神」を祀る信仰が行われていることがわかる。それが窟の開基以来の信仰対象であるのかどうか不明であるが、窟での修行によって、水の湧いている洞穴と実際に信仰の行われている窟は、両方でセットになった一つの窟であると言うことができよう。

原井の経塚
 竹の下の窟から上流へ約1キロメートルほど溯った原井に、福岡県が1976年に作成した遺跡分布地図にも記載されている経塚がある。川の右岸に背後の丘陵から舌状の尾根が突出し、その先端部に経塚は立地している。直径は約3メートルで、高さは約1メートルほどである。ここを訪れた人は意識するしないは別として、眼の前の川を隔てた向かい側に連なる丘陵の正面部分が周囲より一段高く、抜け出た部分が浅間型に近い円錐状をしていることに気づくだろう。これに似た立地は、窟などにも多く見受けられるが、「風水思想」にのっとって選ばれた土地なのであろう。そして、往々にして、こうした宗教遺跡の正面に聳える円錐状の山は、霊山であることが多い。なかには、同じ立地で、山の名がそのまま「霊山」だというところもある。
 そこで、それを確認するために、登ってみることにした。
 三分の一程度登ったところで、山頂から川の方向へ延びる一本の尾根の最も高い部分に、直径約2メートル、高さ約60センチメートルほどの塚を発見した。この場所と、従来から知られている経塚は、川を挟んで正面に向かい合った形で立地する。こうした状況から、この塚も経塚である可能性が考えられる。
 この山の踏査は、経塚らしき塚を発見したことで、一定の成果をあげたものとし、上へは登らずに下山することとした。さらなる詳細な踏査は、今後の課題として残っている。麓で地元の人たちに話を聞くと、「昔、原井の裏山の何処其処にヤンブシがおった」というような話をしてくれた。

原井の窟
 同じ原井地区で経塚から上流側に約300メートルほど上った左岸側の丘陵地に、猛勇神社がある。ここには、かつて神社裏にあった不動宮に祀られていたという木造不動明王座像(市指定文化財)が安置されている。不動明王を祀っていることからみて、以前あったという不動宮は修験に関わる施設であったと考えられる。さらに、猛勇神社に向かって右側(北方)の丘陵には、自然窟がいくつか見られ、このうち巨石が岩陰状になったものには、石塔類が並んでいる。窟の一形態と見ることができよう。
 余談であるが、「原井」という地名は「祓い」に通じ、修験道等のみそぎに関係する場であることが多い。ここよりやや上流側へ上った「畑の冷泉」が、修験者たちのみそぎ場であったことと無関係ではないだろう。

角田ン谷の修験の性格
 求菩提山の山伏たちにとって、角田村が春の峰入りの際の宿となっていたことは、江戸期の記帳に見られる。椎田の浜宮にあったという求菩提山の末寺・紅梅山松福寺から角田村へ来て、それから築城の小山田へ向かうことが知られている。したがって、角田ン谷の修験道関係遺跡は、角田村の宿と椎田・築城の峰入り行ルートに伴うものと考えることができる。求菩提修験道の衰退とともに、やがて、これらのうちあるものは忘れられ、またあるものは民間信仰の中に埋没していったのだろう。
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