役行者1300年遠忌によせて
恒遠俊輔 (求菩提資料館長)
 求菩提山7合目の駐車場で車を降り、かつての杉谷坊中の階段状の山道を登りきって左へ折れ、豊照神社(旧毘沙門堂)を過ぎたあたりに、「神変大菩薩」と刻まれた小さな石碑が建つ。
 神変大菩薩とは、役行者小角(えんのぎょうじゃおずぬ)なる人物が江戸寛政年間に1100年遠忌を迎えた折、彼に授けられたという諡(おくりな)である。
 役行者は、7〜8世紀の頃、大和国にいた宗教者。原始信仰と仏教、呪術を統合させ、のちに修験道の開祖として崇められることとなった。西暦2000年の今年は、彼の1300年遠忌にあたるという。
 昨年、この1300年遠忌を記念して、東京と大阪の地で『役行者と修験道の世界』展が開催された。また、当求菩提資料館でも、『北部九州修験道の山を訪ねて』と題する特別展を企画し、もしかして役行者が歩いたかも知れぬ北部九州の山々の修験関係資料を展示した。
 いずれの展覧会も大変盛況で、役行者あるいは修験道に対する人びとの関心の高さにあらためて驚かされた。おそらく、修験道やその開祖と仰がれる役行者の生きざまには、現代人の心をとらえて離さない魅力があるのであろう。
 役行者に関する正史の初出は、797年成立の『続日本紀』である。そこには、文武天皇3年(699)5月24日のこととして、「丁丑、役君小角流于伊豆嶋、初小角住於葛木山、以呪術称、外従五位下韓国連広足師焉、後害其能、讒以妖惑故配遠処」と記されている。つまり、彼は葛城山に住み、呪術をよく使うので広く人びとに知られるところであった。しかし、その能力を妬ましく思った弟子の韓国連広足(からきにもむらじひろたり)が、「小角は妖言をもって人を惑わしている」と讒言(ざんげん)したために、朝廷は彼を遠隔の地(伊豆島)に配流したというのである。また、『続日本紀』には続いて「世相伝、小角能役使役鬼神、汲水採薪。若不用命、即以呪縛之」とある。すなわち、世間ではのちのちまで「小角は鬼神を使役して水を汲ませたり、薪を採らせたりすることができ、もし鬼神が言うことを聞かなかったら、呪術で自由を束縛した」と言い伝えたというのだ。
 彼にまつわる奇跡に満ちた伝説は、このほかにも『日本霊異記』等に数多く語りつがれている。近世文書『求菩提山雑記』にも、「文武天皇御宇優婆塞六峰満行の後此山に入りて修験の行儀を示し給ふ」とあり、慶雲元年の役行者の求菩提入山を伝えている。むろん、その真偽のほどは定かではなく、修験の山なら何処でも聞かれる伝承と言わなければなるまいが、ただ、峻厳な山へと敢えて分け入り、おのれに厳しい修行を課した役小角のこころが、この求菩提山にも息づいていることだけは確かであろう。
 さて、各地の霊山を歩き、実践宗教としての修験道の世界を探求する久保田展弘氏は、この役行者について「里文化の中に生まれながら、里文化を捨てた人だった。あるいは里文化のごう慢さ、ぜい弱さを捨てた人だったといった方がいいかもしれない」と評している。
 そして、小角41歳の折、山中に籠もっての修行の末に感得したという修験道の主尊《金剛蔵王権現》は「自然の生態系の守護神、エコロジーの守り神」として映るのだと述べ、平地の経済効率最優先の実利的世界に鋭い批評を試みている。
 かつて人びとは狩猟を営み、山林という空間とともにあり、自然と一体化することで生きながらえてきた。そこでは人は自分たち人間だけが特別な存在だなどとは決して考えたりはしなかった。私たちの先祖は命をきちんと営んだ。生命というのは人間だけではない。『古事記』に「草木みなものを言う」という意味の言葉があるが、人びとは、一本の草にも、一本の木にも、一片の石にも、はたまた一匹の虫にも、そこにかけがえのない命があることを認め、それを大切にしたのである。そして、大自然の大いなる恵みによってかろうじて生かされて生きている非力な自分を感じていたのだと思う。
 しかしながら、紀元前2〜3世紀の頃、大陸から稲作技術が伝えられ、わが国に農耕文明が芽生え、それは内面深く自然破壊の罪を宿すことになるのである。平地にすみかを移し、森を拓き、稲作を中心とした農耕生活を始めてからというもの、人は自然の一員でありながら、自然をいかにも開発可能な資源だと位置づけ、自然征服の挙にでた。さらに農業に続いて、工業化の進展をみるに至り、そのことは愈々決定的となる。人間は世界の真ん中におのれを据え、科学万能、ごう慢にももはや自分たちに不可能の文字はないとさえ思い込むのだ。
 そして、とめどもない地球環境の破壊。その果てに、光、水、空気という最低の生存条件すら侵されて、いまや自分たちが生きていく世界を失うかも知れぬ危険にさらされているのである。
 役行者小角のめざした修験道とは、人間の愚かさ、ごう慢さとの決別ではなかったか。みずからの生命の始源に回帰し、失われてしまったものをとり戻すべく、再び山へ入ったのではなかったか。
 さきの久保田展弘氏は言う、
 「修験道は、人間と自然の呼応のなかから生れた宗教だ。・・・・自然と人間との根源的な関わり、そこに生まれる、いわば『生かし合い』を基底においた宗教」だと。
 また、「日本の基層宗教のもっとも凝縮したものが修験道であり、それは生命としての自然を畏敬することに出発していた。人は、自然のあらゆる救護の手のもとで、そのバランスの上にかろうじて生きている」とも述べている。
 この辺に、現代に修験道を問うことの意義があると言えるのかもしれない。21世紀を目前して、じっくり噛みしめてみたい問題である。

 《参考文献》
*久保田展弘著 『修験道・実践宗教の世界』(新潮選書)
*宮家準編 『修験道辞典』(東京堂出版)
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