「銅板法華経」発見文書
恒遠俊輔 (求菩提資料館長)
大内義興奉行人連署書状
 求菩提山文書の中の一通に、「大内義興奉行人連署書状」と呼ばれるものがある。それは、現在国宝に指定されている「銅板法華経」(33枚)とそれを納めた「銅筥」の発見にかかわる文書であり、大永7年(1527)11月3日のものとされている。内容は次の通りである。
 「為御陣御祈祷於当山去七月如法経修行候之処、経衆内頼尊大徳有夢想之告、法花経一部、銅板戸彫付同筥在之、於普賢岩屋掘出之条、為可被備上覧序品陀羅尼品二枚筥共上進之通令披露候、殊勝尤異于他之由被仰出候、仍彼妙典事被下遣候、如元被奉納也、今度出現之次第能々可被記置由候、恐々謹言
  十一月三日   頼郷(花押)
             正秀 御用
  求菩提山衆徒御中」
 つまり、舞台は今から470年ほどさかのぼった戦国時代。この年7月、求菩提では大内氏の「御陣御祈祷」のための「如法経(写経)」の修行が行われていた。時あたかも、大内義興の軍勢は、出雲の尼子氏との合戦の最中であり、その戦勝祈願であったかと思われる。
 そして御陣祈祷の修行を行っていた経衆の一人、坂口坊頼尊が、夢想のお告げによって、山中の普賢窟(胎蔵窟)から銅の筥に入った銅板法華経を発見する。
 この銅板法華経は、求菩提山中興の祖・頼厳らによって康治元年(1142)に勧進され、洞窟を母の胎内に見立てて、山中の普賢窟に埋納されていたものである。
 求菩提山は、それを大内義興に見せるべく、二枚の銅板経と銅筥を彼のもとに上進した。義興はこれを見て、「殊勝尤異于他(大変素晴らしい)」と言い、また「今度出現之次第」をよくよく記しておくようにとも命じている。
 求菩提山ではこうした義興の意向を受け、銅板経が掘り出された経緯を詳細に記録しているはずであるが、それは現在残っていない。

大内氏の豊前支配
 大内氏は中世の守護大名であるが、南北朝以後山口に根拠し、周防・長門・石見3国の守護を努め、ことに西中国で大きな勢力を張った。
 勘合貿易や朝鮮貿易で巨大な富を得、京風文化を移し、学術工芸を奨励し、またキリスト教の布教を許して、独特の山口文化を花開かせたと言われている。
 康暦2年(1380)頃には、大内義弘が新たに豊前の守護職に任命されたと考えられており、室町時代の豊前国は大内氏の支配下におかれることとなる。そして、戦国時代、義興は幕府の管領代となり、安芸、筑前をも加えた6ヵ国を手中におさめる。さらに義隆の時代には、備後国を加えた7ヵ国の守護職を兼ね、大内氏は西国随一の勢力を誇った。
 しかしながら、天文20年(1551)、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるかた)に殺され、これに乗じた毛利元就の手によって、弘治3年(1557)、大内氏は滅亡するのである。
 さて、義興の時代が大内一族にとってまさにその全盛期であったと言えようが、この時期、求菩提山がその大内氏にことさら擦り寄っていく姿勢を見せるのはなぜなのか、戦勝祈願をおこなったりあるいは新発見の銅板経を上進したりする、そこには、それなりの思惑が働いていたに相違ない。

常在山如法寺
 求菩提山麓から10キロメートルほど下ったところに、常在山如法寺(豊前市山内)がある。江戸時代(17世紀末)以降今日に至るまで、黄檗宗の寺院であるが、その開山の歴史は、求菩提修験道とのかかわりで明らかになる。かつての求菩提六峰の一つである。それも、頼厳の高弟であり銅板法華経執筆僧の一人でもある厳尊が住持をつとめた寺で、求菩提山護国寺のもっとも重要な末寺であったと言うことができる。つまり、それは求菩提の東北方向(艮)に位置していて、「鬼門封じ」の役割を担った。またお、その寺名は「如法経」即ち写経に由来し、求菩提の写経所としての性格をもつものであったとも考えられているのである。
 しかしながら、求菩提山と如法寺との間には、やがて対立関係が生じてくる。すなわち、鎌倉時代、建久6年(1195)、宇都宮氏が、信房の時に下野国から豊前国に地頭職として入り、次第に如法寺もその影響下に組み込まれて、宇都宮一族から如法寺へ座主が送り込まれるようになると、情況が一変するのである。信房の三男、信政は如法寺氏を名乗り、とりわけ豊前の上毛郡地域を席巻した。さらに、戦国時代には、如法寺はまさしく宇都宮一族の砦の様相を呈するのである。

求菩提山と如法寺氏の対立
 さて、その如法寺氏と求菩提山の間には、とりわけ南北朝時代以降、その所領をめぐってしばしば争論がひき起こされてきた。当時、領主としてはかなりな武力をもってこの地域を支配していたであろう如法寺氏が、所領の安定的確保と人民への支配強化によって動乱の世を切り抜けようとし、それまでいわば聖域であった求菩提山領への侵入におよんだのであろうと想像される。
 永享3年(1431)の「豊前国上毛郡求菩提山領田地坪付之事」という文書には、「小野村十六町」と書かれたその下に「如法寺筑前守押領以来号大川内村」とある、また「上畑村四町八反」の下には「右同人押領以来号稗畑村」とあり、如法寺氏による寺領押領の事実を窺い知ることができる。そして、近世文書『求菩提山雑記』では、「其後兵乱によりて山領過半隣主に押領せられしより一山次第に衰微して山法古格失ふこと多し」と、当時を振り返っている。
 さて、求菩提山が、大内氏の「御陣御祈祷」を行い、かつ新発見の銅板法華経を義興に差し出したのは、まさしく如法寺氏との間で寺領をめぐる争いの最中であり、大内氏の法廷でその裁断を仰がねばならない、そんな時期であった。言うまでもなく、そこには、大永6年(1526)10月に四至(寺領)を注進し、その保護を訴え出た裁判を何としても有利に運びたいとする求菩提山側の狙いがみえみえである。そして、求菩提山はやがてこの裁判に勝利するのである。大永7年(1527)12月9日付の「大内義興奉行人連署書状」によれば、如法寺氏押領の土地を求菩提山に「還補」すべきことが大内氏の上毛郡奉行能美弘助に下されたことが記されている。
 こうして、求菩提山は、権力の庇護下に入っていくのであるが、保護は同時に規制でもあり、求菩提修験道は、大内氏の宗教政策によって規制されることになるのである。

 【参考文献】
  『豊前市史』
  『北九州市立歴史博物館研究紀要』
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