求菩提山修験道遺跡整備基本構想の策定について
栗焼憲児 (豊前市教育委員会)
本年度年度、豊前市教育委員会では『福岡県指定史跡「求菩提山修験道遺跡群」〜指定史跡を前提とした整備基本構想の策定〜』と題する冊子を纏めた。これは市内求菩提に所在する「求菩提山修験道遺跡群」の国指定史跡への申請を控え、史跡指定後の整備についてその基本構想を示したものであり、今後の取り扱いを方向づけるものである。以下その概要を紹介する。
1.はじめに
求菩提山をはじめて世に紹介したのは、豊前地方の“郷土史研究の祖”とも言うべき岡為造(1886〜1957)氏であった。氏は1909年(明治42)に、日本における考古学専門誌の先駆けである『考古界』(8篇2号)に、「豊前求菩提山国魂神社蔵経筒」と称する一文を寄せており、これが修験道遺跡として求菩提山が世に知られた初見である。
その後、戦前には今吉政吉、吉村鐡臣、大江俊明の各氏を中心とした『築上史談会』や『豊前山岳会』により、求菩提山の調査は精力的に続けられ、調査結果は“築上新聞”にて逐一報告された。こうした活動は吉村、岡、大江の各氏により戦中、戦後を通じて絶える事なく続けられ、現在の求菩提山研究の礎となったという点で、極めて高い評価を与えることができる。
こうした先学の後を引き継いで、その研究をさらに推し進めたのは重松敏美氏(福岡県求菩提資料館前館長)で、1960年代以降文化庁、福岡県教育委員会、豊前市教育委員会との連携を図りながら各種の調査事業を行い、著書『豊щ&提山脩驗文化攷』は求菩提山の総合的な調査研究に多大な成果をもたらした。その結果、1982年(昭和57)には、求菩提山を国の史跡として指定すべく機運が高まり、地元地権者の95%以上の承諾を得て、県教育委員会に指定申請書の提出がなされた。ところが、この申請書は諸般の事情により、その後15年間日の目を見る事なく、書庫の片隅に置かれたままであった。
しかし、こうした諸先輩の命を削るような努力の成果をこのまま眠らせておくことは文化遺産を後世に伝えるべき行政の責任放棄であり、問題をこのまま看過できないことは多くが認めるところである。豊前市教育委員会ではこうした経緯を踏まえ、豊前市民の貴重な財産である求菩提山の今後の活用を考えるとき、計画の見直しを行ったうえで、再度指定申請を行うことが最良の方法であるとの認識に立ち、現在文化庁及び、福岡県教育委員会と協議を行っている。
2.史跡指定予定範囲
史跡整備の前提は、その指定範囲をどうのように定めるかにある。以下、現在予定される指定範囲について概略を示す。
*求菩提地区*
史跡『求菩提山修験道遺跡群』のメインとなる地区で、その線引きは最も重要である。エリアを確定する要因としては、求菩提山の@)結界の範囲、A)坊中の範囲、B)道筋、C)地形・景観、D)修験生活のテリトリー等が考えられる。以下、検討を行うと、結界の範囲は東に“構の石門”北に“西の構”南に“結界石”を見ることができる。これらは一つに坊中を示すものであり、求菩提山主要地域の一定範囲を示していると考えられる。
他方、求菩提山へ向かう道は所謂“求菩提七口”と称され、“鳥井畑八丁口”(中津口)“寒田八丁口”(小倉口)を始め上八丁口・産家口・世須岳口・国見口・犬ヶ岳口からの道がある。このうち“鳥井畑口”は重要で、参道である旧八丁坂の入り口であることから求菩提山の表玄関ということができる。さらに山中のメインストリートであった尾根道周辺は座主墓地等があり、修験道生活の重要な空間ということができる。これに求菩提山を特徴づけるビュート(Butte)地形を考慮し、求菩提地区の指定範囲については、東から北を現在の県道豊前寒田線、西を尾根道筋、南を求菩提山の麓とし、これに旧八丁坂周辺(「東の大鳥居」を含む)を加えた地域としたい。
*不動窟地区*
修験道遺跡を構成する重要な要素の一つに“窟”がある。求菩提山の中で特に重要な“窟”としては、所謂“五窟”をあげることができるが、これらに勝るとも劣らないのがこの不動窟であろう。本来こうした“窟”は修験道の行場であり、行者たちは風雪に休む事なく、こうした“窟”に籠もり、そして巡り修行に励んだとされる。
この“不動窟”に連なる“弁財天窟”“火追窟群”さらに、奇岩“ほら吹き岩”を含めた一帯は比較的近位置にまとまりがあり、また“五窟”に対峙するがごとく位置関係を見せることなどから、これらを一括して「不動窟地区」とし、指定地域に加えたい。
*岩洞窟地区*
求菩提山にかかわる窟の中で、最も規模の大きなものの一つである。求菩提山信仰の中でも具体的な位置づけは明確ではないが、洞窟天井部に彫られた半肉彫の岩壁画は注目される。
さて、岩洞窟地区の指定範囲については、本来岩洞窟のもつ歴史的意味を考慮したうえでなされるべきであるが、現状では十分な意味付けがなされていない。したがって、歴史的景観を考慮した指定範囲の決定が現状では最も有効と考えられるが、一方では前面の水田にかつて寺院が建立されていて、この岩洞窟はその“奥の院”と言う見方もある。こうした点も考慮し現県道と岩洞窟の間の旧道を一つのポイントと捉え、さらに旧道と岩洞窟前面のエリア(現状は水田)が一体として歴史的景観を形成することを考慮し、旧道から岩洞窟方向を一体として指定範囲に取り組みたい。
*如法寺地区*
求菩提六峰の中で最も重要な意味をもつ末寺で、国宝『銅板法華経』の執筆(刻字)僧の一人である「嚴尊」の住した寺として、また求菩提山の北東に位置することから「鬼門封じ」の役割をもつ場所としても知られている。
如法寺では、1968年に山内に散在していた五輪塔を中心とする石塔群が有形文化財として福岡県の指定をうけ、1974年には如法寺境内が史跡指定を、さらに翌1975年には木造金剛力士立像が有形文化財として、それぞれ県の指定を受けている。こうした経緯を踏まえ、1980年から3ヵ年にわたり、如法寺の実態把握を目的とした発掘調査が実施されており、今回の指定範囲についてはその成果により決定された。調査成果については『如法寺』(1983;豊前市文化財調査報告書第4集;福岡県求菩提資料館資料刊行会)に詳しいのでここでは改めて述べないが、如法寺の参道を含め、ゴマ場、遥拝所など主要な部分をほぼ網羅しており、周辺環境も考慮し緩衝地帯(周辺山林)を若干含んでいる。
3.基本的方針
求菩提山の史跡整備については山の自然環境の保全を前提とし、華美なものとならないような整備を原則とする。これは求菩提山が修験道文化のなかで育まれて来たことを踏まえたもので、本来自然崇拝を原点とし、自然との融合の中から発展した修験道文化を表徴する史跡の在り方をかんがえたとき、当然の帰結と考えられる。ただ一言付け加えるならば、その考え方の根底には《今に生きる人々》のためではなく、《将来に生れ来る人達》への思いがある。“自然”という言葉には「人の力を加えない」と言う意味があるが、前に述べたとおり整備に対するテーマを“自然”とした場合、その目的を達成するためには、膨大な時間を要することとなる。
こうした基本方針に従い『基本構想』では
@指定後の規制区分
3段階の区分により、現状変更の規制や土地の公有化の必要性について。
A環境整備計画
案内板などの整備や、アクセスルートの整備について。
B整備構想
各地区の現状把握と必要な整備内容について。
C今後の課題
指定地の公有化の問題、整備調査の問題、自然環境の保全、求菩提資料館の位置づけ、管理の在り方などについて。
D指定後の活用方針
生涯学習プログラムの設定、エコミュージアム構想について。
などについて検討を行っているが、紙面都合上ここではその詳細に触れることはできないので詳しくは原典を参照されたい。
さて、いま地球の年齢を40億歳、人類のそれを400万年とし、これを1mの物指しに置き換えれば人類の歴史はわずか1mmに過ぎない。そのわずか1mmの歴史が今、地球を瀕死の状態に追い込もうとしている。先の温暖化防止京都会議(気候変動枠組み条約第三回締約国会議)で採択された議定書では、現在上昇し続ける地球の気温上昇を将来的に二度以下に抑えるために、その主要な原因物質である温室効果ガス(二酸化炭素、フロンガスなど)の排出量について、各国毎の目標値を定め将来に対して一定の指針を示した。日本の場合その目標値は2010年までに6%の削減を掲げたが、こうした問題を実際に生活の中で実践するためには我々一人一人の自覚と責任感が不可欠であることは言うまでもない。その実践方法については多くの選択肢が考えられるが、その一つに地域での自然環境の保護がある。
今回基本構想で述べられている『求菩提山修験道遺跡』を活用した自然環境の保全は、こうした問題に対する一つの試みでもある。
豊かな自然が残されている豊前市の中で自然保護を語るとき、それは現実感のない言葉の響きとして捉えられがちである。しかし、地球規模の環境破壊が進む中、我々は未来の子供達にどのような形で現代の責任を果たし、そしてこの“宇宙船地球号”を託して行くことができるのか。まさに真剣な取り組みが求められているのである。
継体天皇20年(526)に猛覚魔卜仙なる人物により開かれたと伝えられる「求菩提山」の歴史は今、新たな一歩を踏み出そうとしている。今回の基本構想がその理解の一助となることを願わずにいられない。