文書にみる求菩提修験道前史
恒遠俊輔 (求菩提資料館長)
 求菩提山に修験道がもたらされたのは、平安末期、旧豊前国宇佐郡出身の僧・頼厳によってである。壮年の頃、比叡山に上り修験を学んだ彼は、1140年代、求菩提山に入る。爾来、山は、多くの修験者が住み着き、一大修験道場と化す。
 むろん、12世紀になって、いきなり求菩提が修験道の山になったわけではない。そこには、それを受け入れる素地がなければならないし、いわば土台となる信仰史がなければならない。そして、その修験道前史にスポットを当てて見てこそ、求菩提山信仰の何たるかがより明確なものとなるのであろう。
 しかしながら、はなはだ資料に乏しく、わずかに山頂から5〜6世紀のものと推定される須恵器の小片が出土していて、求菩提山信仰の歴史がはるか古墳時代にまで溯るものであろうことが窺い知れる程度である。となれば、古文書に頼るほかはないのだが、それとて概ね大きく時を隔てて後世に書き記されたものであり、「伝承」の域をでるものではない。ただ、そうは言いながらも、さしあたっては、そこに過去を解明する手がかりを求めてみなければなるまい。

《求菩提山開山伝説》
 近世文書『求菩提山雑記』に、こう記されている、「豊前国求菩提山ハ神霊奇瑞を示し給ふ山にして往古ハ絶頂常に奇雲たなひき夜毎金光起こりて衆峰を照す遠近星を仰き見て奇異の思ひを成幾春秋なるとをしらす是偏に神明降臨の徳を顕し玉ふ故地なり・・・」と。
 こうした記述と、求菩提山が円錐形で、その各所に今なお火山岩の一種である安山岩質の溶岩の露頭が見られることとを考え合わせれば、かつてこの山が活火山であり、その噴火や噴煙の現象に対して古人は畏怖の念を抱き、そこから信仰が出発したであろうことが想像される。
 さて、その『求菩提山雑記』は、猛覚魔卜仙なる人物について記している。彼こそが、求菩提山信仰史に最初に登場する主人公である。卜仙は、継体天皇即位20年(526)、この嶽の金光をたずねて山頂によじ登り、すこぶる「神明降霊の瑞相」であるがゆえに、「顕国霊神の祠」を建てた。そして、同文書では、これがこの嶽に神霊が鎮座したはじめであるとしている。
 英彦山には、継体天皇25年(531)に北魏の僧・善正が初めて山に入ったという渡来系の開山伝説があるが、そこに猛覚魔卜仙を重ね合わせてみたい気がする。「猛」は強い、「覚魔」は聖者、「卜仙」は呪術者を意味したのであろうが、彼もまた、善正と同様に、渡来系の宗教者ではなかったのか。
 ちなみに、『求菩提山雑記』は、卜仙による開山に続いて、「文武天皇御宇役優婆塞六峰満行の後此山に入て修験の行義を示し給ふ・・・」とあり、修験道の開祖・役行者の求菩提山入山を伝えている。またさらに、養老4年(720)、隼人の反乱に際して、求菩提山で異敵調伏の祈祷を行った行善和尚が、護国寺を創設したとも記している。

《求菩提に伝わる鬼の話》
 卜仙は、山中に大己貴神を祀る祠を建てたのと時を同じくして、求菩提の南々西、犬ヶ岳に棲む鬼を退治したという。『求菩提山雑記』には深山威奴岳(犬ヶ岳)に凶暴な鬼=山霊がいて国家に多大な害を及ぼしていたので、卜仙がこれを降伏させ、威奴岳の絶頂にひとつの甕を置き、八鬼を駆って、その霊を甕に封じ、奇災を払って、民家を安らかしめたという意味のことが書かれている。そして、今日なお求菩提山八合目に建つ鬼神社は、卜仙によって退治された鬼の霊を祀ったものだとされている。また、卜仙が甕を埋めたとされる犬ヶ岳のその場所は、今も「かめのお」という名で呼ばれている。言うまでもなく、これは、いつの時代かに誰かによって創作されたものであろうが、卜仙によって征服された鬼、はたまた卜仙によってその霊が祀られ、新参の千日行者にだけその霊を納めた箱を覗くことが許されたという鬼、その鬼とは果たして何か。一方で征服の対象として否定的に扱われ他方その霊を祀って、いわば肯定的に処遇される鬼の正体、はなはだ気になるところである。この「鬼」こそが、ありおは修験道前史をたどるうえでのキー・ワードなのかもしれない。

《縄文時代から弥生時代へ》
 紀元前3世紀の頃、日本は稲作農耕社会をむかえた。稲の起源地としては、揚子江中・下流域が有力視されているが、一説によれば、それが大陸を北上し、山東半島を経て、遼東半島あるいは朝鮮半島からわが国へと伝わったと考えられている。そして、まず北部九州に始まった稲作文化は、瀬戸内海沿岸部を通って、近畿地方へと拡大していく。むろん、ただ単に大陸から稲作技術や金属器がもたらされたのではない。この時期、それらを携えて、かなり大量の人びと(いわゆる弥生人)が日本へやってきたのだということに注目したい。つまり、ここから、いわゆる弥生人による縄文人征服の歴史が始まるのである。そして、弥生人たちを束ねた権力の代表が天皇であり、畿内に於ける天皇王権は、先住の縄文人を征服し支配することによって確立されたということができる。
 ちなみに、先住民は「古モンゴロイド」、大陸からやってきた人たちは「新モンゴロイド」、同じモンゴロイドでもそこには明らかな違いが指摘されている。
 言うまでもなく、北部九州から近畿地方にかけては、新旧モンゴロイドの混血が急速にすすんだのであろうが、しかし、大和朝廷の勢力が列島の隅々にまで直ちに及ぶことはなく、南北に天皇王権にまつろわぬ多くの人びとがいて、しばしば抵抗を試みた。また、先住民のなかには、山に入り山にとどまる者もいたと言われる。彼らを、柳田国男は「山人」と呼び、宮本常一は「山の民」と称した。そして、狩猟民のみならず金属採掘者、蹈鞴師(たたらし)、木地師、杣人、鉄山師、炭焼きなどをも、その仲間に入れている。天皇支配の網から逸脱して生きているがゆえに、彼らに関する記録はほとんどなく、今日その詳細を知ることはできないとされるが、ともあれ、山人あるいは山の民と呼ばれる人たちが、古代から明示にかけて日本の山地に存在していたことだけは確かなようだ。かれらは、里人から「鬼」と恐れられ、忌み嫌われたという。

《鬼の正体を探る》
 さて、猛覚魔卜仙に退治されたという求菩提の鬼もまた、かの「山人」ではなかったのか。
 なぜなら、山岳仏教や修験道は、その出発点において、非農耕・狩猟民系の人々と交流し、その文化を採り入れてきたと考えられるからである。また、山中の難所等を熟知した山人の助けなくして、修験者が険しい山に足を踏み入れることなどできなかったにちがいないと想像したりもするからである。
 ともあれ、各地の山岳寺院や修験道の山には、狩人の開山伝説が数多く残っている。修験道の祖師・役小角は、「よく鬼神を使い、水を汲ませ、薪を採らせた。もし鬼神が命に従わないときは、咒をもってこれを縛った」とその超能力ぶりがしばしば紹介されるが、彼の像の左右には、常に「前鬼」「後鬼」が侍る。この二匹の鬼を山人だと指摘する人は多い。また、空海は、地主神「狩場明神」に導かれて丹生津姫の神域である高野山に入り、金剛峰寺を建立して、この女神を真言宗に帰依させたと伝えられるが、狩場明神画像にみる猟犬をつれた狩人姿のたたずまいは、文字通り、山人を彷彿とさせる。さらに、英彦山の伝承にも、藤原恒雄なる豊後国日田郡出身の猟師が登場する。すでに触れた通り、英彦山の開山は北魏の渡来僧善正であるが、善正は修行中にその恒雄と出会う。善正は恒雄に向かって殺生の罪を説くが、全く聞きいれようとしない。恒雄はその後も狩猟を続け、ある時白鹿を射殺す。ところが、空から三羽の鷹が現れ、一度死んだ白鹿を蘇らせた。この奇跡を目の当たりにした恒雄は、善正の弟子となり、名を忍辱と改めたという。いずれも、そこには、大陸から渡来した新しい宗教が、土着の信仰を呑み込んでいく過程を見てとることができるような気がする。むろん、求菩提山とて、同様であろう。ただ、旧来の信仰が完全に否定され征服されたのではない。犬ヶ岳の鬼が卜仙によって駆逐されながらも、一方でその霊が神として祀られたことからもわかるように、新来の宗教と土着の信仰とが「習合」していくのである。

《山の記憶をいま一度》
 その昔、人の魂は死後山へと昇り、やがて山の神となって里の人たちを見守ると信じられた。山の神は、春になれば山を下り、田の神に変じて稲の実りを助け、収穫が終わればまた山へと帰って行く。山は天にもっとも近く、しばしば神々の降臨する場所だとも考えられた。また、日々の生業とのかかわりから、人びとは山を恩恵的な存在として崇めたりもした。わけても、水田稲作にとって不可欠の水の源としての山や森は、人びとにとって大切なものであった。そこに山岳信仰が生れる。そして、それをベースに、シャーマニズムや道教、さらには密教が結びついて、やがて修験道の成立をみる。
 山を神の降臨するところとみたり、祖霊の宿る場所だと感じたり、山には水分神がいるのだとする見方は、言うまでもなく、平地から山を仰いで生活する里人(農耕民)の発想である。しかし、そのことは、狩猟の時代を終えて農耕社会へと移行してもなお、山の存在が人々の間にずっしり重いものとして受けとめられていたことを物語っているのではないか。言い換えれば、日本人の心の奥底には、稲作以前の縄文的な山の記憶がいつまでも消えることなく残っていて、人びとの精神に様ざまに影響しているように思えるのである。
 わが国は、文字通り山また山である。まるで人間の背骨のごとく太い山脈が、列島を貫く。そして、その山々を水源として川が流れ落ち、平地を潤している。思えば、稲など作れない山地の方が圧倒的に多いのである。日本人は、山と切り離しがたく結びついて生きてきたのだ。これまで、日本人の出発を農耕民族だとし、とかく日本文化の源流を弥生的な稲作農耕社会の中に求める傾向が見受けられるが、むしろ山や森からの発想、縄文的発想をこそ、日本人の精神史の原点に据えるべきではないのか。縄文の人々は、自分たち人間だけがこの世界で何か特別な存在だなどと考えたりはしなかったであろう。彼らは、生命の神秘に気づき、またあらゆるものの中に人間と同じように懸命に生きようとする命を見いだし、その命をこのうえなく尊いものと感じてきたのではなかったか。そして、さまざまな生命を育む大自然の生態系の微妙なバランスの上に辛うじて生かされて生きる、実にか弱い自分自身を発見していたのではなかったか。21世紀へむけて、今こそこうした山の記憶を取り戻さなければと思う。
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