断食行見学記
恒遠俊輔
1996年暮、高校生、主婦、会社員といった人たちによる求菩提山中での断食行を見学する機会を得た。
12月28日午前零時、夜のしじまにホラ貝の音が響きわたり、「懺悔、懺悔、六根清浄(サーンゲ、サーンゲ、ロッコンショウジョウ)」の声とともに、山伏姿の四人が、二人の先導者にみちびかれて杉谷の山道を登ってくる。かつて山伏たちの葬儀が行われたという安浄寺跡にしつらえた祭壇の前で全員で読経の後、一人だけがその場に残って「般若心経」を繰り返し唱える。また、近くの岩屋坊では、一人が不動明王像の前で経を唱え、他は囲炉裏端で暖をとりあるいは仮眠する。2時間交代である。そして、それは、昼も夜も、丸3日間続く。白湯以外は口にしない。
この年末はポカポカ陽気だったとは言え、夜の山はかなりな冷え込みようである。そんな中、寺跡に一人座し一心に経を唱える行者。私は、ロウソクと月の明かりに浮かび上がるその姿をしばらく見つめていた。彼はそして彼女は、そこで何を感じ、何を想うのであろうか。
栃木県からやってきたという主婦は、「子育てがうまくいかず、家の中は騒がしいのに、何だか寂しくて。夫の実家、近所とのつきあいに疲れ、自分の小ささを感じていた。もやもやした思いをすっきりしたかった」と、取材の新聞記者にこの断食行への参加の動機を語っている。そして、行の合間に、彼女はこうも言っている、「土のにおいも、空気もいい。手を広げて楽になれるような解放された気がします。・・・・今まで人間関係の中で縮こまっていた感じがなくなりました。ここには安心感がある」と。
だとすれば、この断食行という彼らの宗教行為は、がんじがらめの共同体の人間関係から己を解き放ち、世間のしがらみから自由になったところで、ごまかしようのない正真正銘の自分自身と向き合い、自己の心の奥底をのぞき込んで見ようとする行為なのかもしれない。そしてさらに言えば、それは、とかく自らをごまかして生きる日常性と決別して、自分の生の始原、宇宙の根源に触れようとする極めて孤独な作業だとも感じる。
私は、行者の姿と重ね合わせながら、この夜山中で二時間近くも行者の到着をひとりぽつねんと待ち続けていた自分自身のことを思った。そこには、実に頼りなげな私がいて、いろんな人たちに支えられてこそ生きられる自分を改めて実感させられたのである。また、闇の中の私の心は、不思議な優しさで満たされていたようにも思えた。
午前1時を過ぎて、私は帰路についた。あいにく懐中電灯が壊れ、暗闇を探るようにして、ゆっくりと山を下る。「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色・・・」静まりかえったなかで、行者の唱える経だけが背後に聞こえる。形あるものはいつかが壊れる、形あるものに執着するのは空しいことだと説いているのであろう。眼前はるか彼方には、街の明かりがなおキラキラと美しく輝いて見える。だが、そこは虚飾の世界、奢りの世界、そして空しい世界というべきか。